ピョートル・チャイコフスキー
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チャイコフスキーという姓は祖父ピョートル・フョードロヴィチの代にチャイカ(Чайка: 伝統的なウクライナの姓で、カモメを意味する)から改めたものであり、家系は現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウクライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ[2]。また、チャイコフスキーの祖先には軍に関係のある人が多い。父親のイリヤは軍の中佐として鉱山を指揮した[3]。祖父のピョートル・フョードロヴィチは軍で軍医の助手をし、のちにウドムルト共和国グラゾフで市長を務めた。曽祖父のフュードル・チャイカはサポロージエ・コサックの生まれであり[4]、1709年の北方戦争におけるポルタヴァの戦いで、ピョートル1世のもとで活躍し、有名になった[5][5]。母のアレクサンドリアは、イリヤの2人目の妻である。フランスに出自を持ち、イリヤの18歳年下である[6]。父はフルートを吹き、母はピアノを弾き歌を歌うなど、音楽的な家庭であった[7]。しかし、いずれの祖先にも職業音楽家はいなかった[8]。チャイコフスキーには6人の兄弟がいたが、とりわけ親しかったのは妹のアレクサンドラと双子の弟アナトーリーとモデストだった。アレクサンドラの子どものウラディーミル・ダヴィドフは、のちに作曲家となり、チャイコフスキーと親しくなった。チャイコフスキーはダヴィドフのことを「ボブ」と呼んでいた[9]

1844年、チャイコフスキー家は、兄のニコライと従妹のために、家庭教師にフランス人のファンニ・デュルバッハを雇う。チャイコフスキーはまだ4歳だったが、兄と共にデュルバッハに学び、6歳の頃にはドイツ語とフランス語を流暢に話せるようになった[10]。チャイコフスキーは彼女に親しみを抱き、チャイコフスキーにとってデュルバッハは、母に代わる精神の拠り所だったといわれる[11]。デュルバッハはチャイコフスキー幼年時代の話をよく知る貴重な人物であり、彼の感受性の強さや音楽への熱中を伝えている[12]ヴォトキンスクにあるチャイコフスキーの生家。現在ではチャイコフスキー博物館となっている

チャイコフスキーは家にあったオーケストリオンで、モーツァルト、ロッシーニ、ドニゼッティなどの音楽に夢中になった。5歳から家庭教師マリア・パリチコワの手ほどきによりピアノを習い始めて音楽的才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、1850年10月(10歳)でサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学させた[13][7]。同年7月にはペテルブルクにてグリンカのオペラ『皇帝に捧げた命』を鑑賞している。1852年の秋、詩人V・オリホフスキーの『双曲線』を題材にしたオペラの作曲を構想。歌を学び、法律学校の聖歌隊の一員となる。

1854年6月13日(14歳)、コレラに罹患した母アレクサンドラが40歳で亡くなり、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた[14][15]。母から離れて暮らしていたうえ、母が死んだというトラウマは、チャイコフスキーの心の中に死ぬまで残った[16]。この直後から、音楽にいっそう専念するようになり、作曲を始めるようになった。最も古い作品だと思われる、アナスターシャ・ワルツはこの頃に作曲されている[8]1855年、R・キュンディンゲルからピアノを、A・キュンディンゲルから和声学を、G・Y・ロマーキンから声楽を学び始める。R・キュンディンゲルはチャイコフスキーの才能に感嘆したが、将来音楽家や作曲家になるようなことを示すものではなかったと語っている[17]。彼のチャイコフスキーに対するこの評価は、彼自身のロシアでの音楽家としての辛い経験を踏まえて、チャイコフスキーに同じ目に遭ってほしくなかったという思いによるものだったことをのちに彼は認めている[18]

1859年5月13日に法律学校を卒業し、6月3日に法務省に9等文官として就職。仕事のほとんどは訴訟事務の取り扱いであり、味気のない日々が続いた。チャイコフスキーは官吏としての職務にはそれほど熱意はなかった[7]1861年には、妹のアレクサンドラがウクライナのカーメンカに領地のある大貴族ダヴィドフ家に嫁ぐ。チャイコフスキーはこのカーメンカ(カーミアンカ)の地を気に入り、1870年代にはこの土地を毎年のように訪れ、この地でいくつもの楽曲を作曲している[19]。チャイコフスキーの兄弟姉妹は後年にいたるまで仲がよく、チャイコフスキーを支え続けた。同年、ヨーロッパに初の外国旅行をした[20]


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