ピョートル・チャイコフスキー
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仕事のほとんどは訴訟事務の取り扱いであり、味気のない日々が続いた。チャイコフスキーは官吏としての職務にはそれほど熱意はなかった[7]1861年には、妹のアレクサンドラがウクライナのカーメンカに領地のある大貴族ダヴィドフ家に嫁ぐ。チャイコフスキーはこのカーメンカ(カーミアンカ)の地を気に入り、1870年代にはこの土地を毎年のように訪れ、この地でいくつもの楽曲を作曲している[19]。チャイコフスキーの兄弟姉妹は後年にいたるまで仲がよく、チャイコフスキーを支え続けた。同年、ヨーロッパに初の外国旅行をした[20]ニコライ・ルビンシテイン(1872年)

ここまでチャイコフスキーは平凡な文官としての道を歩んでいたが、1861年の秋に知人からの紹介で音楽教育を行っている帝室ロシア音楽協会を知り、1862年9月より学び始める。ザレムバのクラスで和声学と対位法を学び、アントン・ルビンシテインのクラスで編曲と作曲を学び始める。このクラスに入学したことがチャイコフスキーに取って大きな転機となった。この音楽クラスは翌1862年アントン・ルビンシテインによってペテルブルク音楽院に改組される。ここでチャイコフスキーは音楽を本格的に学び、のめりこんでいく。本格的に音楽の道に進むことを決意したチャイコフスキーは、1863年4月(5月とも[15])、23歳のときに法務省の職を辞して音楽に専念することになる[20]。ピアノと作曲、音楽理論の家庭教師としての仕事を得る。チャイコフスキーは大作曲家としては珍しく、一般高等教育を受けたあとに音楽教育を受けており、そのため音楽家としてのスタートはほかの作曲家と比べて非常に遅いものとなった。

1865年12月には、ペテルブルク音楽院を卒業し、1866年1月にモスクワへ転居し、帝室ロシア音楽協会モスクワ支部で教鞭をとる。この支部からは同年9月にアントン・ルビンシテインの弟、ニコライモスクワ音楽院を創設し、チャイコフスキーはそこに理論講師として招かれ、以後12年間ここで教鞭を取ることとなった。またこれ以降、チャイコフスキーはモスクワを活動拠点とするようになり、音楽院辞職後もチャイコフスキーはモスクワおよびその近辺にとどまることが多かった。後に、チャイコフスキーのほとんどの楽譜を出版することとなるユルゲンソン社のピョートル・イヴァノヴィチ・ユルゲンソンとは、この時期に知り合った[8]。この年に交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の作曲を始め、12月に第2楽章が初演、翌年2月に第3楽章が初演された。(全曲が初演されたのは1868年。)また、1867年、初のオペラである『地方長官』を完成させた。国民的色彩の強い、交響曲第1番の初演をきっかけに1868年には、サンクトペテルブルクでロシア民族楽派の作曲家たち、いわゆるロシア5人組ミリイ・バラキレフツェーザリ・キュイモデスト・ムソルグスキーアレクサンドル・ボロディンニコライ・リムスキー=コルサコフ)と知り合い、交友を結ぶ[20]。同年、バラキレフの意見を聞きながら、幻想的序曲『ロメオとジュリエット』を作曲し、バラキレフに献呈している。チャイコフスキーは彼らの音楽とはある程度距離をとったものの、こののちチャイコフスキーの音楽には時にロシア風の影響が現れるようになった[21]。同年、ベルギーのオペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ち、毎晩、彼女の元へ通うようになる。このことが誰の目にも明らかになり、自分の父親に結婚したい旨を手紙で書き送る。婚約にまで至るが翌年破綻した[20]

1868年3月10日、新聞「同人代の年代記」紙に、チャイコフスキーが執筆した初めての音楽評論が掲載される。「リムスキー=コルサコフ氏の『セルビア幻想曲』について」と題し、ロシアの音楽評論の論壇を批判した本記事は『セルビア幻想曲』が聴衆や批評家から受けた冷ややかな反応に対して作品と作曲者を擁護した内容となっている。1872年からは新聞「ロシア報知」の音楽批評欄を担当するようになる。バイロイト音楽祭バイロイト祝祭劇場のこけら落としのレポートなど50あまりの批評を執筆し、この仕事は1876年まで続けた[22][15]ハンス・フォン・ビューロー

1875年ピアノ協奏曲第1番(作品23)を作曲。初演を依頼したニコライ・ルビンシテインの酷評を受け、ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送る。ビューローによる初演は大成功し、ヨーロッパの各都市で演奏された。ニコライはチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになった。ナジェジタ・フォン・メック夫人

1876年、『テンペスト』を聴いて感激した富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メック夫人から6000ルーブルの資金援助を申し出られる。これ以降、1890年までの14年間、メック夫人から資金援助を受けることになる。チャイコフスキーとメック夫人の間には頻繁に手紙が交わされたが、2人が会うことは一度もなかった。このころ作曲された交響曲第4番(作品36)はフォン・メック夫人に捧げられた。またトルストイとも知り合う。同年、西ヨーロッパに旅行に出かける。パリではビゼー『カルメン』を鑑賞し、強く感動した。チャイコフスキーとアントニーナ・ミリューコヴァ

1877年にはアントニーナ・ミリューコヴァに熱烈に求婚され、結婚したものの、この結婚は失敗だった。チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。10月にチャイコフスキーは突然妻の元を去り、弟のアナトーリーが付き添いペテルブルクに逃れ、事実上離婚した。アントニーナが離婚に納得することはなく、その後もチャイコフスキーに手紙を送って彼を悩ませた[22]。この年、バレエ『白鳥の湖』が完成し、オペラ『エフゲニー・オネーギン』も完成している。1877年終わりから1878年3月頃までは、結婚生活で衰弱した体の療養として、弟と共にスイスのクラランやイタリアのサンレーモで過ごした。ラロスペイン交響曲に刺激を受け、ヴァイオリン協奏曲(作品35)に着手し、数週間で完成させた[22][23]

1878年10月、作曲に専念するために12年間勤めたモスクワ音楽院講師を辞職する。それから約10年間、フィレンツェパリナポリやカーメンカなどヨーロッパ周辺を転々とし、大作から遠ざかる。1880年には『弦楽セレナード』(作品48)、大序曲『1812年』(作品49)が書かれた。同年、父イリヤが84歳で死去する。1881年には友人ニコライ・ルビンシテインが死去し、彼の死を悼んでピアノ三重奏曲(作品50)の作曲に着手する。翌年完成し、ニコライの一周忌に初演した。原稿には "A la memoire d'un grand artiste"(ある偉大な芸術家の思い出のために)と書かれていた。同年、ヴァイオリン協奏曲がウィーンで初演されたが、不評に終わった。1882年、バラキレフとの交流が再燃し、彼の勧めで作曲したマンフレッド交響曲(作品58)が1885年に完成した。同年2月、モスクワ郊外のマイダノヴォ村に家を借り、旅暮らしに終止符を打った。この頃、チャイコフスキーがロシア音楽協会のモスクワ支部局長に選ばれ、また、弟子のタネーエフがモスクワ音楽院院長に選ばれ、チャイコフスキー自身も音楽院の試験に立ち会うなど、社交的な行動を取るようになっていった[24]


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