ピューリタン
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前史・背景.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}マルティン・ルタージャン・カルヴァン

16世紀、キリスト教では北ヨーロッパを中心にマルティン・ルタージャン・カルヴァンらによって、ローマ・カトリック教会への批判に端を発する宗教改革運動が起こった。彼らはラテン語で「抗議」を意味するプロテスタント(新教)と呼ばれるようになり、カトリック(旧教)から独立した。ルターらの批判は多岐にわたるが、その大きなものとしては聖書に書かれていない事柄の権威の否定であり、具体的には教皇聖座)や教会法の否定、(聖書にない)聖伝や典礼の否定であった。これら理念は「聖書主義」「万人祭司」「信仰義認」などとして表される。

一方、同時期のイングランド王国では、国王ヘンリー8世(在位:1509年-1547年)が自身の離婚問題によりローマ教皇庁と対立し、ローマ・カトリックの権威を否定するために、国王を首長と認めるイングランド国教会を創設し、国内のカトリック教会から分離・独立させる宗教改革を行った。これもカトリックの権威を否定した宗教改革としてプロテスタントに含まれるが、明らかにルターやカルヴァンのものとは性質が違い、後述のように、むしろ中世カトリックの特徴が残っているものであった。さらに、敬虔なカトリック教徒であったメアリー1世の時代(1553年-1558年)に激しい揺り戻しが起こり、プロテスタントの聖職者は処刑されたり国外追放に処された。
エリザベス朝の宗教改革詳細は「ピューリタンの歴史 (エリザベス朝)(英語版)」を参照

1559年、エリザベス朝の宗教改革においてイングランド国教会はプロテスタント教会として確立され、イングランドにおける宗教改革は一段落した。エリザベス1世の時代(在位:1558年-1603年)、国教会は改革派教会と一般にみなされ、主要教区や高位の主教はカルヴァン派に占められていた。しかしながら、大聖堂や聖歌隊、『共通祈祷書』(Book of Common Prayer)に基づく典礼、伝統的な聖職者の式服や教会政治制度は、中世カトリックの特徴が一定程度保持されていた[14]

このエリザベス女王の統治初期のイングランドのプロテスタントの中には、女王の宗教政策は大きな改革の始まりに過ぎないと考える者が多かった。これは特に前代のメアリー1世時代の国外追放を受け、その後に帰国して故郷で司祭や主教を務めていた者たちであった[15]。彼らは、国外追放時代の大陸での亡命生活において同地の改革派教会から直に学ぶ機会を得た。そして急進的な者は自身の教区でさらなる改革に乗り出した。政府とピューリタン間の初期の論争としては、説教や歌唱時間を増やすために典礼の一部を省略するというものがあった。ピューリタンの中にはイエスの名が聞こえるたびに頭を下げることや、洗礼で十字を切ること、結婚指輪やオルガンを用いること自体を拒絶する者もいた。中でも大きな不満の対象となったのは、聖職者が白いサープリスと聖職帽を着用することであった[16]。ピューリタンの聖職者たちは、黒い学者風の服装を好んだ。この祭服論争では国教会側は聖職者の服の使用を強制しようとしたが失敗した。ピューリタンは決して大衆運動ではなかったが、貴族階級に強力な後援者が付き、その支援と保護を受けていた[17]

1570年代において政府とピューリタンの間で最も大きな論争になったのは、望ましい教会統治の制度(教会政治)を巡るものであった。すなわち、ピューリタンの主張は、カトリック的な司祭(監督、Bishop)の指導に基づく監督制から、ヨーロッパの他地域の改革派教会に倣った長老(Elder)による指導に基づく長老制にすべきというものであった[18]。ピューリタンは議会を通じてこれら改革を進めようとしたが、すべて女王によって防止された。しかし、それでも、当時のピューリタンの指導者であるジョン・フィールド(英語版)やトマス・カートライト(英語版)らは、ピューリタンの聖職者たちからなる秘密会議(連絡組織)を組織して、長老制の推進を続けた。この組織やネットワークは、1580年代のマーティン・マープレリト論争(英語版)の時に発見されて解体され、女王の残りの治世下ではピューリタンによる改革運動は停止した[19]
ジェームズ1世の時代詳細は「ピューリタンの歴史 (ジェームズ1世)(英語版)」を参照

1603年にエリザベス女王が崩御し、ジェームズ1世が国王に即位すると、ピューリタンは国教会改革を求める「千人請願(英語版)」(Millenary Petition)を提出した。しかし、ジェームズはそれとは別路線での宗教改革を望んでいた。彼は1604年にハンプトン・コート会議(英語版)を招集し、ローレンス・チャダートン(英語版)を含む4人の著名なピューリタンの指導者から話を聞いたが、国教会の主教側に味方した。ジェームズはそれまでの教育とスコットランドでの育ちから、神学的事項に精通しており、エリザベス朝時代に行われたピューリタンの過激な影響に対処し、自身が仲裁者となる独自の宗教政策を追求した。

ジェームズが任命した主教の多くはカルヴァン主義者で、特にジェームズ・モンタギューは影響力のある宮廷人であった。ピューリタンは、イングランド国教会におけるローマ・カトリック的要素の多くに反対した。特に『共通祈祷書』に対するものが有名だが、それ以外にも、礼拝における非世俗的な祭服(帽子とガウン)の使用、洗礼での十字を切る仕草、聖体拝領をひざまずいて受けることにも反対していた[20]

ジャコビアン時代のピューリタン運動は、「半分離主義」や「穏健清教主義」、最初にピューリタンを自称として用いたウィリアム・ブラッドショー(英語版)の著作、初期の会衆主義の登場などにより、適応と妥協が特徴であった[21]。この時代のピューリタンのほとんどは国教会に留まる選択をした(非分離派)。国教会と完全に袂を分かつ道を選んだ分離派は、数の上では非常に少ないものであった。
チャールズ1世の時代詳細は「ピューリタンの歴史 (チャールズ1世)(英語版)」を参照

1625年、崩御したジェームズ1世の後を継いで国王チャールズ1世が即位した。この治世下において、ピューリタンはそれまでの宗教勢力から政治勢力としての力も持ち始める。専制志向のチャールズは国王大権を濫用し、これに反対する者たちはピューリタンの改革派勢力と手を組んだ。この時代、ピューリタンたちは、国教会改革が自分たちの考えと反対に進んでいること、また(あくまで彼らの目線で)宮廷や教会内にカトリックの影響力が増大していると見ていた。歴史家クリストファー・ヒルは次のように説明している。

想像力の高まったピューリタンたちはヨーロッパ全土で灯火が消えつつあるように思い込んだ。反宗教改革は、魂だけではなく教会財産も取り戻しつつあるように見えた。チャールズ1世とその政府は、反宗教改革勢力と手を結んでいなかったとしても、少なくとも経済面、政治面では同じ目標を持っているように見えたのだ。 ? Economic Problems of the Church (1956年) by Christopher Hill[22]

スコットランドの反乱(主教戦争)に端を発する2度の議会招集(短期議会長期議会)は政府とピューリタンの関係を完全に破綻させた。反乱の原因はピューリタンらが望ましい体制と考える長老制を敷くスコットランドに対し、チャールズが監督制である国教会の祈祷書を強制しようとしたというものであったことから、国教会に反発するピューリタンらはスコットランドに同情し、政府に非協力的な態度を示した。こうして議会は政府に忠誠を誓う王党派と、ピューリタンらが主導する議会派に分かれた。議会派は国王と国教会の長であるウィリアム・ロードを批難し、最後は大抗議文での決裂を以て1642年、イングランド内戦清教徒革命)が始まることとなる。

チャールズが専制を行った1629年から1640年にかけて(専制の11年)は、新天地としてアメリカに向かうピューリタンも多かった。ニューイングランドの形成や会衆派の入植は、チャールズの治世の中期頃がピークであった(詳細は#ニューイングランドの形成を参照)。
清教徒革命と内部分裂詳細は「ピューリタンの歴史 (1649年以降)(英語版)」を参照ウェストミンスター会議を描いたヴィクトリア朝時代の歴史画(ジョン・ロジャーズ・ハーバート(英語版)作)


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