ピューティア大祭
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なお古代オリンピックではオリーブの葉冠(オリーブ冠)が授与された[1]
聖なるデルポイの平和

およそ三ヶ月ほど続く大祭の開催中には、「聖なるデルポイの平和」が宣言された。この宣言で、競技参加者や観客など、大祭の参加者全員が、危険なく安全に自分の国からデルポイを訪問し、再び安全に帰国できることが保証された。

大祭の期間は、市民集会所や市場が開かれ、多数の訪問者が費やす金銀は、デルポイ市にとって大きな収入源ともなった。また、デルポイはこの期間、各種技芸や芸術の重要な交流の場となった。
大祭と競技進行次第キタラとムーサチャリオット御者像

デルポイ祭競技に関する証言記録や文書類は、意図的な湮滅の暴力と自然災害の結果、ほとんどが失われてしまった。残存している資料はいずれも、競技大会の栄誉や魅力を強調し取り上げている。

アリストテレスの記録によって、大祭の概略が得られる。競技大会は6日から8日のあいだ続き、アポローン神がピュートーンに打ち勝ち勝利を得た様子を再現する「聖なる競技」から始められた。陽気で魅力に満ちた祭の進行のなかで、アポローンの神殿において「大祭の犠牲」の献納式が行われた。祝祭の四日後、一般の競技が開始された。

音楽演奏と演劇のコンペティションは「劇場」で行われ、スポーツ競技は「デルポイのスタディオン」で開催された。チャリオット・レースは、峨々として険阻なデルポイの山容の景観も考慮して、近くのクリサの平野で行われた。

音楽の技芸競技として、以下のものがあった。

神アポローンを扱った讃歌一編

フルートとキタラ(古代ギリシアの弦楽器)の演奏?歌唱が付く場合と付かない場合

演劇と舞踊のコンペティション

絵のコンペティション

デルポイの競技祭は名誉ある競技であった。競技の勝利者は、賞金を受け取るのではなく、オリュンピア大祭競技の場合に、「オリーブの小枝」を受け取るように、「月桂樹の小枝」を受賞した(これらの小枝は冠の形にして、オリーブ冠や月桂冠の形で勝者の頭上を飾った)。

時として、競争の賞品として林檎が提供され、勝利者は、象徴的な「椰子の木の小枝」をピューティア祭で受け取ることもあった。オリュンピア競技祭でも似たようなことがあった。特別な栄誉と称賛の贈物として、競技者たちのため、彫像がまた捧げられた(デルポイの地で発掘され出土した「チャリオットの御者像」は、このような競技の勝者の栄誉のために制作された像とも考えられる。右図参照)。とはいえ、勝利者が自身の故郷のポリスで受け取る名声は、何にも較べがたく価値があった。各ポリスは、その代表である競技者が、競技祭でできる限り優れた成功を収めることができるよう、あらゆる手を尽くし援助を惜しまなかった。
ピューティア大祭の終焉

紀元394年ローマビザンティンの皇帝であるテオドシウス1世が、ピューティア大祭をその非キリスト教的な性格故に異教神殿破壊令を出し禁止、そして神域の崩壊に至る。ここに、1千年近くにわたって継続していた大祭と、それに付随する全ギリシア的競技大会は終焉した。
近代デルポイ競技

1600年後、ベルリンにおいて、国際デルポイ評議会(International Delphic Council、IDC)が設立された。18カ国の代表が、近代のデルポイ運動の創設者である J・クリスティアン・B・キルシュ( J. Christian B. Kirsch )からの招聘に応じた。


こうして、「第一回ジュニア・デルポイ競技1997年」が、グルジアトビリシで開催された。更にモスクワで、「第一回近代デルポイ競技2000年」が開催された。これ以降、「第二回ジュニア・デルポイ競技2003年」がドイツのデュッセルドルフで開催され、「第二回デルポイ競技2005年」がマレーシアのクチンで開催された。また「第三回ジュニア・デルポイ競技2007年」が、フィリピンのバギオで開催予定であり、更に、二年後には、韓国の済州市で「第三回デルポイ競技2009年」が開催予定である。

右写真は、1997年4月の「第一回ジュニア・デルポイ競技」において、グルジア大統領エドゥアルド・シェワルナゼ(右)を歓迎する IDC初代会長 Ebun A. Oyagbola(左の人物)。
脚注[脚注の使い方]^ a b c 真田久、宮下憲、嵯峨寿「アテネオリンピック 2004の文化的側面 (<特集 アテネオリンピック・パラリンピック>)」『体育科学系紀要』第28巻、筑波大学体育科学系、2005年3月、129-139頁、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}CRID 1050282677523573504、hdl:2241/11385、ISSN 03867129、2022年9月16日閲覧。 

参考書籍

呉茂一 『ギリシア神話』 新潮社

ロバート・グレイヴズ 『ギリシア神話』 紀伊國屋書店

M. C. Howatson Concise Companion to Classical Literature Oxford Univ. Press

関連項目

アポローン - デルポイ

古代ギリシア

古代オリンピック - 近代オリンピック


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