ピナトゥボ山
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地質図を作成すると、周囲の平地の大部分が過去の噴火の火砕流と火山泥流で形成されたことがわかった。4月と5月を通して、火山活動はますます活発になった。二酸化硫黄放出量の測定では、5月13日には1日あたり500トンだったのが、5月28日には1日あたり5,000トンにまで急増していた。

5月26日 初めて噴気孔のすぐ近くを震源とする地震が起きた。これらは新しいマグマが火山の直下で上昇してきていることを示唆している。

5月28日以降、二酸化硫黄の放出量が急激に下がり、何らかの原因でマグマからのガス放出が妨げられている恐れが高まった。これはマグマ溜まり内の圧力上昇につながり、爆発的な噴火が起きる可能性が高いことを示していた。

6月3日 最初のマグマ性噴火。

6月7日 最初の大爆発が起こり、高さ7000m以上の噴煙が立ち上った。


避難

大噴火が迫っていることを示すありとあらゆる徴候を前にして、レイモンド・プノンバヤン所長率いるフィリピン火山地震研究所 (PHIVOLCS) とクリス・ニューホール率いるアメリカ地質調査所 (USGS) から派遣された調査チームにより、山頂からの距離に応じて3つの避難地域が指定された。火山の頂上から10km以内の全域を含む最奥地、10kmから20kmの地域、20kmから40kmの地域(アンヘレス市とクラーク空軍基地はこの地域)である。10km以内と10-20km地域の総人口は約4万人、20-40km地域には約33万1千人が居住していた。火山警報として、レベル1(差し迫った噴火の心配はない)からレベル5(大噴火継続中)までの5段階が設定された。警報レベルと危険地域は毎日発表され、その情報は主要全国紙・地方紙・ラジオ・テレビ・NGOによって報じられた。

4月に最初の爆発が始まった時点で、山の斜面に住むアエタ族の多くは自発的に村を去り、山頂から約12km離れた村の一つに集まった。爆発の規模が大きくなるにつれ、次々に遠くの村へと移動した。

4月7日 10km地域に対して初の公式な避難命令が下された。

6月5日 警報レベル 3(2週間以内に大噴火の可能性あり)に変更。

6月7日 警報レベル 4(24時間以内に大噴火の可能性あり)に変更。10-20km地域が避難の対象となった。

6月9日には警報レベルが5になり、20-40km地域からの避難が開始された。

6月15日までに、火山から30km以内の地域にいた6万人すべてが退去した。多くの市民が一時的にマニラケソンに移住し、約3万人が避難所として割り当てられたケソン市のアモラント・スタジアムに居を構えた。

6月10日 クラーク空軍基地に避難命令が発せられ、司令官以下必要最小限の人員だけを残して他の将兵と家族約1万4500人はスービック海軍基地に避難した。

激化6月12日

6月初旬 傾斜計が火山の膨張を示した。火口の下にあるマグマの増大が原因であることは明白だった。同時に、以前は山頂から北西約5kmの地下数kmに集中していた震源が、山頂直下の浅部に移動した。

6月7日 最初のマグマ性噴火で山頂に溶岩ドームが形成された。溶岩ドームはそれから5日間で成長し、直径が最大約200m、高さが最大40mに達した。

6月12日3時41分 小規模な爆発を皮切りに、噴火はより激しさを増した。8時50分頃から大爆発が約30分間続き、噴煙はすぐに高度19kmに達し、いくつかの谷筋で火砕流が発生し山頂から4kmの地点まで達した。23時頃、爆発が15分間続き、火山灰が高度24kmまで噴き上げられた。噴煙の中で火山灰が摩擦を起こし火山雷が発生した。

6月13日 弱い地震が2時間続いたあとの8時41分に、3回目の大噴火が始まった。噴火は約5分間続き、噴煙はまたしても高度24kmに達した。3時間の沈黙の後、地震活動がはじまり、24時間で激しくなっていった。

6月14日13時9分 噴火が始まり、それが3分続き噴煙が高度21kmに達するとともに地震も終息した。

この4つの大噴火によって、火山砕石物が火山南西の広範囲に降り積もった。4回目の大噴火が治まってから2時間後、一続きの噴火が始まり24時間続いた。大規模な火砕流や火砕サージが発生して山の斜面の峡谷沿いに何キロも流れ下った。
絶頂6月15日6月29日、火砕流の堆積物で埋められた谷8月1日の山頂カルデラ

6月15日、噴火は絶頂を迎えた。台風第5号 (YUNYA) が接近する中で早朝から噴火が繰り返され、雨に混じってゴルフボール大の軽石が降り注いだ。13時42分に始まった大きな揺れは、クラーク空軍基地のすべての地震計の針を振り切った。マニラでも地震が続いた。火砕物の混濁流のために、14時30分までにすべての地震計が計測不能に陥った。また、強烈な空振が記録されている。

火山の北75km近辺を通過した台風による雨で噴火の目視観察は不可能だったが、センサの示すところ、噴火のピークは3時間ほど続き、火山灰が高度40kmまで噴き上げられた[7]。火砕流が山頂から16km流下し、台風の豪雨が降り積もった火山灰に染み込んで大規模な火山泥流(ラハール)を引き起こした。まさに、プリニー式噴火である。

火山灰からなる雲は、125,000 km2もの面積をおおい、ルソン島中心部の大部分が闇に包まれた。島のほぼ全域で火山灰が降り、水を吸って重量を増し雪のような状態で一面をおおった。南シナ海一円で火砕物が降り、降灰はベトナムカンボジアマレーシアにまで及んだ。

噴火のピークに至った9時間後の22時30分頃には、空振は噴火前のレベルにまで落ちていた。この時の地震の記録は存在しないが、火山学者は22時30分に噴火のピークが終わったと考えている。
余波

噴出物(火砕物・火砕流の堆積物)の総量は約10km3。これは1912年アラスカ州ノヴァラプタ山以来の大噴火で、1980年のセント・ヘレンズ山の約10倍にあたる。噴出物はマグマより希薄なので、マグマで換算すると約4km3に相当する。この大噴火の火山爆発指数は6である[8]。山頂があったところは、差し渡し2.5kmのカルデラになった。外輪山の最高点は標高1,485mで、噴火以前より259m低くなっている。堆積した噴出物の厚さは最大200mにも達し、場所によっては噴火から3年余り経ってからも二次的な水蒸気爆発が起きるほど高温だった。

噴火による死者847名の死因の多くは濡れた火山灰の重さによる屋根の崩壊によるものであったが、噴火と同時に到来した台風による雨水が堆積した火山灰に染み込み重さを増したために被害が拡大した。しかしながら噴火前の避難指示は結果的に数万人の命を救い、火山学と噴火予知の偉大な成功として認められている。

だが噴火の沈静後も、毎年のように雨季になると火山泥流が発生して数千人が避難している。また、避難所の不衛生な環境により数百名が死亡した。地域の農業は噴火の影響で数百km2もの耕地が不毛と化し、数千人に及ぶ農民の生活基盤が破壊され、大打撃を受けることとなった。

この地域には、米比相互防衛条約に基づく大きな米軍基地が2つ存在していた。火山の南西75kmのスービック海軍基地と、東40kmのクラーク空軍基地である。2つ共が噴火により大きな被害を受け、そのまま放棄された。

1991年の噴火はその大きさと激しさにおいて20世紀最大級だったが、地質学者が発見した過去の噴火に比べると小規模なものである。複数の証拠によると、ピナトゥボ山の噴火は段々と弱くなってきているようだが、立証はされていない。
社会・経済への影響

ピナトゥボ山の噴火は周辺地域の経済発展を著しく阻害した。広範に損害を受けた建物とインフラの復旧には数十億ペソの費用がかかり、噴火後の火山泥流を制御するための堤防やダムの建設にさらなる経費がかかった。防災工事の一部は日本政府からの援助で行われている。

総計で364ものコミュニティの2100万人が、噴火の影響で生活基盤と家屋を損傷・破壊された。全壊家屋は7000戸を越え、さらに7万3000戸が損傷を受けた。こういったコミュニティへの被害に加えて、火山周辺の道路と交通機関が火砕流と火山泥流により損傷・破壊を被っている。インフラストラクチャーの修復にかかる費用は38億ペソと見積もられた。地上で被害を受けたり飛行中に火山灰を吸い込んでエンジントラブルを起こした航空機も多く、それらの損害の合計額は1億USドルを越えるという。

多くの森林再生事業が噴火で頓挫し、合計で150km2の面積が被害を受け、被害額は1億2500万ペソに上る。農業被害も極めて深刻で、800km2(20万エーカー)の稲作地帯が破壊され、約80万頭の家畜家禽が死んだ。農業の被害額は15億ペソと見積もられた。

医療施設の損傷と、避難所での病気の蔓延のために、噴火から数か月の間、死亡率が大きく跳ね上がった。学校が破壊され、数千人の児童教育が中断した。ピナトゥボ山周辺の地域内総生産は国内総生産(GDP)の約10%を占め、噴火以前は毎年5%ずつ成長していたが、1990年から1991年にかけて3%以上下落した。
全世界への影響ピナトゥボ山の火口カルデラ湖(1992年

大量の溶岩と火山灰を噴出した大噴火によって、成層圏に大量のエアロゾルと塵埃が放出された。成層圏で酸化した二酸化硫黄が作り出す硫酸エアロゾルは、噴火から一年をかけて成層圏をゆっくりと拡散していった。成層圏へのエアロゾル注入は、1883年のクラカタウの噴火以来の規模で、二酸化硫黄の量は約1700万トンと見積もられている。現代の観測機器で測定された中では最大の量である(チャートを参照のこと)。

成層圏へのエアロゾルの大量放出の結果、地表に達する太陽光が最大で5%減少した。北半球の平均気温が0.5から0.6℃下がり、地球全体で約0.4℃下がった。同時に、エアロゾルが輻射を吸収して成層圏の温度が通常より数℃上昇した。噴火で作られた成層圏の雲は、3年間も大気中に残存した[3]

噴火はオゾンレベルに重大な影響を与え、オゾン層の破壊率が大幅に上がった。中緯度のオゾンレベルは最低を記録し、1992年の南半球の冬季には、南極上空のオゾンホールが過去最大の大きさになり、オゾン層破壊の最高速度を記録した。1991年のチリハドソン山の噴火も南半球のオゾン層破壊に影響した。ピナトゥボ山とハドソン山それぞれのエアロゾル雲が圏界面に到達した際、オゾンレベルの急低下が観測された。

成層圏の塵埃によって、顕著な影響がもうひとつ見られた。月食の見掛けへの影響である。通常は半分の食であっても暗いとはいえ目に見えるが、噴火後は火山灰が太陽光を吸収するため、食の間は通常の月食に比べて暗く、見えにくかった。
1991年以降ピナトゥボ山のカルデラ湖(2008年


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