1763年に勃発したポンティアック戦争の最中にピット砦はオハイオ川流域や五大湖周辺のネイティブ・アメリカンの部族によって2ヶ月間にわたって包囲された。ヘンリー・ブーケット大佐はブッシーランの戦いでネイティブ・アメリカン軍を破り、ピット砦を開放した。1768年にはスタンウィックス砦条約が締結され、イロコイ連邦の領土がアメリカ合衆国に割譲され、現在のピッツバーグ市域のうち、ノース・サイドを除く地域がペンシルベニアに編入された。1784年には2度目のスタンウィックス砦条約が締結され、現在のノース・サイドを含む、オハイオ川以北の地域、およびアルゲイニー川流域もペンシルベニアに編入された。一方、この地は植民地時代から、バージニアとの間で州境線をめぐって係争になっていたが、1780年に両州の合意により、メイソン=ディクソン線を西方へ延長することで決着した。ピッツバーグは1785年にペンシルベニア州の所有となった。その後1794年にはピッツバーグが正式にペンシルベニア州の郡区となり[13]、1816年には市に昇格した。
産業の発展モノンガヒラ川河岸風景(1857年)[14]
独立戦争が終わると、ピッツバーグにはさまざまな産業が発展していった。ピッツバーグにおける初期の産業は、オハイオ領土に船で入ろうとする入植者をターゲットにした造船業であった。18世紀末には、ピッツバーグにはガラス産業が興った。1815年頃には、ピッツバーグは鉄、真鍮、錫、およびガラス製品の一大生産地となっていた。1830年代には、ウェールズのメルスィル・ティッドヴィルで起きた暴動により、同地の鉄鋼労働者が大量にピッツバーグに移入してきた。1857年頃には、ピッツバーグには1,000棟の工場が建ち並び、年間2200万ブッシェルの石炭を消費していた。
南北戦争は鉄や軍用品の需要を生み、ピッツバーグの地域経済を潤した。1875年には、アンドリュー・カーネギーが近郊のノース・ブラドック町にエドガー・トムソン鉄工所を創設し、ピッツバーグ地域における鋼の生産が始まった。この鉄工所は後にカーネギー・スチール・カンパニー(Carnegie Steel Company)となった。カーネギー・スチールはヘンリー・ベッセマーの発明した鋼の精錬法を導入することによって成長した。1901年、カーネギー・スチールはフェデラル・スチール・カンパニー、およびナショナル・スチール・カンパニーと統合され、USスチールが設立された。全米最大の鉄鋼会社となったUSスチールの本社はピッツバーグに置かれ、またジョーンズ・アンド・ロックリン・スチールなどもあり、鉄鋼業界におけるピッツバーグの地位を確立させた。1910年代には、全米で生産される鉄鋼の1/3から1/2がピッツバーグで生産されていた。
産業の発展に伴って人口も急増した。1910年には、ピッツバーグは人口533,905人を抱え、ニューヨーク(4,766,883人)、シカゴ(2,185,283人)、フィラデルフィア(1,549,008人)、セントルイス(687,029人)、ボストン(670,585人)、クリーブランド(560,663人)、ボルチモア(558,485人)に次ぐ全米第8の都市に成長していた[15]。50万人を超える住民の多くは、エリス島を通って移入してきたヨーロッパ人移民であった。
1913年11月1日、アメリカ初のガソリンスタンドが市内で営業を開始[16]。モータリゼーションが発達する契機となった。 ピッツバーグのダウンタウン(1920年) 産業の町として急速に発展したピッツバーグでは、実業界の指導者がそのまま政治の指導者であり、選出・任命される幹部公務員もまた自分の事業を抱えていた。市の公共投資は彼らの事業に便宜を図るように実施されてきた[17]。 アメリカ合衆国の諸都市では、19世紀後半に人口が増えて労働者の票が選挙に不可欠になると、中・下層の市民に個別的な便宜をはかって集票し、それを市政支配のために用いるマシーンが登場した。ピッツバーグのマシーンは、市職員から頭角を現したクリストファー・マギー
マシーン政治と市政改革