ピッツバーグ
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バージニア植民地総督を務めていたイギリス人のロバート・ディンウィドルは、フランス軍がこの地から撤退するように警告するため、ジョージ・ワシントン少佐をこの地に派遣した。1753年から翌1754年にかけて、イギリスはこの地にプリンス・ジョージ砦を突貫で建てたが、フランス軍はこの砦に進攻してイギリス人を撤退させ、その跡地にデュケイン砦を建てた。やがてフランスは1669年のラ・サールによるこの地の発見を引き合いに出して、オハイオ川流域の支配権を主張すると、その支配権をめぐってイギリスとフランスとの間でフレンチ・インディアン戦争が勃発した。エドワード・ブラドック将軍による1度目のデュケイン砦進攻(モノンガヘイラの戦い)は失敗に終わったが、1758年に行われたジョン・フォーブズ将軍による2度目の進攻は成功し、フランス軍をデュケイン砦から撤退させ、砦を破壊させた。その後フォーブズはこの地にウィリアム・ピットにちなんでピット砦を建てることを命じ、この入植地をピッツボローと名付けた[11]。このピッツボローという地名は、その後1794年にピッツバーグに縮められた[12]

1763年に勃発したポンティアック戦争の最中にピット砦はオハイオ川流域や五大湖周辺のネイティブ・アメリカンの部族によって2ヶ月間にわたって包囲された。ヘンリー・ブーケット大佐はブッシーランの戦いでネイティブ・アメリカン軍を破り、ピット砦を開放した。1768年にはスタンウィックス砦条約が締結され、イロコイ連邦の領土がアメリカ合衆国に割譲され、現在のピッツバーグ市域のうち、ノース・サイドを除く地域がペンシルベニアに編入された。1784年には2度目のスタンウィックス砦条約が締結され、現在のノース・サイドを含む、オハイオ川以北の地域、およびアルゲイニー川流域もペンシルベニアに編入された。一方、この地は植民地時代から、バージニアとの間で州境線をめぐって係争になっていたが、1780年に両州の合意により、メイソン=ディクソン線を西方へ延長することで決着した。ピッツバーグは1785年にペンシルベニア州の所有となった。その後1794年にはピッツバーグが正式にペンシルベニア州の郡区となり[13]1816年には市に昇格した。
産業の発展モノンガヒラ川河岸風景(1857年)[14]

独立戦争が終わると、ピッツバーグにはさまざまな産業が発展していった。ピッツバーグにおける初期の産業は、オハイオ領土に船で入ろうとする入植者をターゲットにした造船業であった。18世紀末には、ピッツバーグにはガラス産業が興った。1815年頃には、ピッツバーグは鉄、真鍮、錫、およびガラス製品の一大生産地となっていた。1830年代には、ウェールズのメルスィル・ティッドヴィルで起きた暴動により、同地の鉄鋼労働者が大量にピッツバーグに移入してきた。1857年頃には、ピッツバーグには1,000棟の工場が建ち並び、年間2200万ブッシェルの石炭を消費していた。

南北戦争は鉄や軍用品の需要を生み、ピッツバーグの地域経済を潤した。1875年には、アンドリュー・カーネギーが近郊のノース・ブラドック町にエドガー・トムソン鉄工所を創設し、ピッツバーグ地域における鋼の生産が始まった。この鉄工所は後にカーネギー・スチール・カンパニー(Carnegie Steel Company)となった。カーネギー・スチールはヘンリー・ベッセマーの発明した鋼の精錬法を導入することによって成長した。1901年、カーネギー・スチールはフェデラル・スチール・カンパニー、およびナショナル・スチール・カンパニーと統合され、USスチールが設立された。全米最大の鉄鋼会社となったUSスチールの本社はピッツバーグに置かれ、またジョーンズ・アンド・ロックリン・スチールなどもあり、鉄鋼業界におけるピッツバーグの地位を確立させた。1910年代には、全米で生産される鉄鋼の1/3から1/2がピッツバーグで生産されていた。

産業の発展に伴って人口も急増した。1910年には、ピッツバーグは人口533,905人を抱え、ニューヨーク(4,766,883人)、シカゴ(2,185,283人)、フィラデルフィア(1,549,008人)、セントルイス(687,029人)、ボストン(670,585人)、クリーブランド(560,663人)、ボルチモア(558,485人)に次ぐ全米第8の都市に成長していた[15]。50万人を超える住民の多くは、エリス島を通って移入してきたヨーロッパ人移民であった。

1913年11月1日、アメリカ初のガソリンスタンドが市内で営業を開始[16]モータリゼーションが発達する契機となった。 ピッツバーグのダウンタウン(1920年
マシーン政治と市政改革

産業の町として急速に発展したピッツバーグでは、実業界の指導者がそのまま政治の指導者であり、選出・任命される幹部公務員もまた自分の事業を抱えていた。市の公共投資は彼らの事業に便宜を図るように実施されてきた[17]

アメリカ合衆国の諸都市では、19世紀後半に人口が増えて労働者の票が選挙に不可欠になると、中・下層の市民に個別的な便宜をはかって集票し、それを市政支配のために用いるマシーンが登場した。ピッツバーグのマシーンは、市職員から頭角を現したクリストファー・マギーと、労働者から実業家に成り上がったウィリアム・フリンが1880年に築いた共和党のマギー・フリン・リングと呼ばれるもので、1901年までピッツバーグの政治を完全に支配した。マギーとフリンは自らは基本的に公職につかず、親族・友人・部下たちを市議会議員に当選させ、議員を通じて思いのままに幹部職員の任命を行なった。実施される市の政策、公共事業はフリンの企業に利益をもたらすようにされた[18]

マシーン支配は利益誘導によって中・下層の大衆の支持を獲得するものであったが、腐敗から利益を得ない企業の経営者や、医師・弁護士などの専門職は不満を抱えていた[19]。彼らは19世紀末から市政改革運動を起こして、マシーンの腐敗を追及し、市民リーグを結成した。1899年にマシーンからの造反者が市民党を作って市民リーグと手を結び、1901年にマギーが死ぬと、マギー・フリン・リングは選挙で敗れ、急速に崩壊した[20]。1905年には民主党の市政改革派ジョージ・グズローが市長に当選した。市政改革は必ずしも市民参加をうながすものではなく、むしろ逆に、参加の機会を遮断することでマシーンを解体し、集権的・専門的な市政を作る方向に進んでいった[21]
衰退と再生2009年、ピッツバーグはG20サミット開催地として世界の首脳を迎えた。

第二次世界大戦中には、ピッツバーグでは9500万トンもの鉄鋼が生産された[11]。しかし、この頃になると、石炭を燃やしたり、鉄鋼を生産したりするのに伴う大気汚染により、スモッグが発生するようになった。大気汚染自体は1868年にボストンの作家・漫画家ジェームズ・パートンがピッツバーグをhell with the lid off(恐ろしいもののありったけを見せられた地獄)と評した[22]ように既に現れていたが、それがおよそ80年経って顕在化した形になった。1960年代に入ってもピッツバーグの産業は発展を続けていたが、1970年代に入ると、地元鉄鋼業は衰退に転じた。工場は相次いで閉鎖に追い込まれ、街には大量の失業者があふれた。しかし1980年代に入ると、ピッツバーグは鉄鋼業に依存していた従前の産業構造から脱却し、ハイテク、保険、教育、金融、サービス業を中心とした地域経済へと移行することにより、活気を取り戻した。

こうしてピッツバーグは再生を遂げた。2007年に始まったサブプライムローン問題に端を発した、2000年代後期の世界的な金融危機とその後の不況の中においても、ピッツバーグでは雇用や住宅価格がアメリカ合衆国内の他地域に比較して安定し、地域経済の強さを見せ付けた。2009年5月、バラク・オバマ第3回20か国・地域首脳会合の開催目的である、金融と世界経済の「再生」というイメージを強調するため、当初はニューヨークで開かれる予定になっていたこの会合の開催地を、再生の成功体験を持つピッツバーグに変更した[7]。「G20ピッツバーグ・サミット」とも呼ばれるこの会合は、2009年9月24日・25日にダウンタウンのデイヴィッド・L・ローレンス・コンベンション・センターで開催された。


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