ピッグス湾事件
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これに反発したカストロ首相は、弟のラウル・カストロを冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソ連の首都モスクワに派遣し、1960年2月にアナスタス・ミコヤン第一副首相がハバナを訪問し、1億ドルの借款供与、砂糖買い付け、武器売り渡しを柱とする経済協力協定を結んだ[4]

アメリカ合衆国本土のすぐ隣の国であるキューバがソビエト連邦と手を組む事態を受けて、アメリカは共産主義国家の脅威を間近で感じることになった。

1961年1月3日にはキューバに対して国交断絶を通告した[注 3]。この間に大量のキューバからの避難民がフロリダ州マイアミに集まり、その数は10万人に達した。
アイゼンハワー政権のカストロ転覆計画アイゼンハワー大統領(中)とニクソン副大統領(左)

これに先立つ1959年10月に、ニッケル鉱山などのアメリカの鉱業利権をカストロ政権が接収し始めると、アイゼンハワー大統領はCIAに対してキューバへの海空からの破壊活動、キューバ国内の反革命勢力への支援、カストロ体制の打倒工作、カストロ暗殺計画などを承認して秘密裏に転覆計画を開始した[5]

母国を脱出してきた亡命者1,500人をゲリラ軍として組織化し、CIAの軍事援助と資金協力の下でキューバ上陸作戦を敢行させるため、1954年のPBSUCCESS作戦により親米軍事政権が成立していたグアテマラの基地においてゲリラ戦の訓練を行った。退任間近だったアイゼンハワー大統領はやがてキューバ問題から手を引き、その後は共和党の次期大統領候補ともなるリチャード・ニクソン副大統領やCIAのアレン・ダレス長官らがこの作戦計画を進めた。

その間、作戦は当初のゲリラ戦から通常戦に変更する決定が下された。そして、兵員数と物資で圧倒的に劣る反カストロ軍がキューバ政府軍に勝つために、アメリカ軍の正規軍の介入が計画に組み入れられた。1960年11月に大統領選挙が行われ、1961年1月20日ジョン・F・ケネディが大統領に就任した。
CIAの計画ジョン・F・ケネディ大統領とロバート・マクナマラ国防長官ピッグス湾上陸の予行演習を行うキューバ人亡命者

大統領選挙に当選したばかりのケネディは、就任前にCIAのダレス長官からこの作戦計画の説明を受けた時はことの重要さと大胆さに仰天した。その後ライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長とバーク海軍作戦部長の専門的意見を聞いたがいずれも成功する作戦として問題ないというものであった。

1961年4月4日[注 4]、キューバでの作戦行動について国務省で最後の会議が開かれた。大統領の他にディーン・ラスク国務長官ロバート・マクナマラ国防長官C・ダグラス・ディロン財務長官J・ウィリアム・フルブライト上院外交委員長、アーサー・シュレジンジャー大統領顧問、アレン・ウェルシュ・ダレスCIA長官、チャールズ・カベル副長官、リチャード・ビッセル担当官、そしてライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長などの顔ぶれであった[6]

ダレスCIA長官と作戦担当のリチャード・ビッセルがこの作戦の内容を説明した。まずアメリカが介入するのではなくカストロ政権が成立後にアメリカに避難した亡命者から約1400人がグアテマラでCIAによる軍事訓練を受けており、この1400人が陸海共同でキューバへの上陸作戦を展開し、上陸が成功すればキューバ国内の反政府抵抗組織2500人と同調する反カストログループ約2万人が行動を起こし、これに鼓舞されて情報機関の推定で総人口の25%を占めるカストロに反感を示す大衆が蜂起する、というものだった[7]。反カストロ軍の空軍部隊がカストロ政府軍の飛行場を爆撃して最初に制空権を奪う。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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