ピッグス湾事件
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

後に亡命キューバ人グループの指導者ハリー・ウィリアムズに向かってロバートは「君のところの誰かがやったんだろう」と声をかけている[17]
社会主義革命

それまでキューバ革命は特に「社会主義革命」と宣言されていたわけではなかったが、カストロ首相は1961年5月1日メーデー演説で「社会主義革命であった」と正式に宣言するとともに、軍備増強の必要性を認識し、ソビエト連邦東ドイツ北朝鮮をはじめとする社会主義体制、共産党政権東側諸国との友好関係の確立を図り、これ以降急速に東側諸国と同盟および友好関係を築くことになる。
事件の名称

反カストロ軍の名称も様々なら、事件の名称も様々である。ピッグス湾事件、コチノス湾事件、プラヤ・ヒロン侵攻事件、ヒロン浜侵攻事件、ヒロン海岸侵攻事件、あるいは第一次キューバ危機などで、日本でも当初ピッグス湾事件と呼ばれ、やがてコチノス湾事件と呼ばれていた。最近ではプラヤ・ヒロン侵攻事件あるいはヒロン浜侵攻事件と呼ばれている。

それぞれ名前の由来は以下のようなものである。事件の舞台となったスペイン語名のコチノス湾(Bahia de Cochinos)、コチノスとはコチーノ、スペイン語での意味する語の複数形であり、この英訳からピッグス湾。侵攻軍が上陸地点に選んだ地点、スペイン語名のプラヤ・ヒロン(Playa Giron)、それぞれプラヤとは浜やビーチの意、ヒロンはスペインフランスで主に用いられる姓で、プラヤ・ヒロンの場合はフランス人の海賊Gilberto Gironに由来し、その訳語からヒロン浜、ヒロン海岸の名称が冠せられている。

日本では一方の当事者であるアメリカと近い立ち位置から、アメリカ側の呼称であるピッグス湾事件の名称が主流だが、他方の当事者であるキューバ側の人物では、ラウル・カストロ議長が2009年4月16日にベネズエラで開催されたALBA(米州ボリーバル主義同盟)首脳会議の席で、この事件が話題になった折りに歴史的用語となった「プラヤ・ヒロン」について、「かつては集落であったが今では観光地になってしまった」として、「コチノス湾事件と呼ぶ方が正確だ」と興味深い指摘をしている[12]など用いる呼称に違いがある。
ウィーン会談詳細は「ウィーン会談」を参照ウィーンで会談するケネディ(右)とフルシチョフ(左)

ピッグス湾事件より2カ月後に、ウィーンで米ソ首脳会談が行われた。フルシチョフにとってはアメリカのピッグス湾事件の失敗で、ケネディに対して優位に立ったと判断して会談に臨んだ。ケネディにとっては失地回復の場としてフルシチョフとの個人的な折衝を通じて円滑な意思疎通が図れるようにするための会談でもあった。キューバ問題に関しての二人のやり取りは以下のようなものであった[18]

ケネディ

フルシチョフ首相がアメリカの動きを基にして判断しなければならないように、私はソ連が次にどう動くかに基づいて判断を下さねばならない。だからこれらの判断に、より大きな正確さをもたらすものにしなければならない。それによって国を危険に曝すことなく競争の時代を生き抜くことができる。


フルシチョフ

危険はアメリカが革命の原因を誤解したときにのみ起こる。革命はすべて内発的なものであり、ソ連が作り出したものではない。キューバに対してアメリカはバチスタを支持し、このことがキューバ国民の怒りがアメリカに向かっているのです。大統領が決断したキューバ上陸作戦はキューバの革命勢力とカストロの地位を強めただけです。もともとカストロは共産主義者ではない。しかしアメリカの政策が彼を共産主義者に変えたのです。私も共産主義者に生まれたわけではない。資本主義者が私を共産主義者にしたのです。わずか600万人のキューバがアメリカにとって脅威ですか?アメリカがキューバに思いのまま自由に行動できるとすればアメリカ軍の基地があるトルコイランにソ連が干渉するのも自由になります。この状況が大統領の言う誤算を引き起こすことになります。


ケネディ

私はバチスタを支持していない。自分が懸念しているのはカストロが地域のトラブルの基地に変えてしまうことです。キューバがアメリカにとって脅威ではないのと同じくトルコやイランもソ連の脅威とはなりえない。

このピッグス湾事件後もケネディ政権はカストロ政権の打倒を目ざして、キューバ国内へのクーデター支援・政権打倒工作、ゲリラ攻撃、カストロ暗殺工作などマングース作戦と呼ばれる工作を続け、このままではアメリカ合衆国から政権を打倒されると危機を感じたカストロが、1962年5月にソビエト連邦に軍事的支援を求めて、核ミサイルの搬入とミサイル基地の建設に入り、その結果1962年10月のキューバ危機を招くに至った。

2011年4月にはこのピッグス湾事件から50年を記念した式典がキューバ国内で行われた。
脚注
注釈^ この亡命キューバ人部隊の名称は様々であるが、アメリカでは『二五〇六部隊』と命名されていた。「チェ・ゲバラ」井高浩昭 著 149P参照
^ 1959年1月7日にアメリカはこの政権を承認している。
^ 制裁は国際連合総会からの非難と再三の解除要求決議にも拘らず50年以上解かれなかったが、2015年7月に国交を回復した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef