またこのピッグス湾事件を第一次キューバ危機として、翌1962年10月の核戦争の寸前までいったキューバ危機を第二次キューバ危機とする呼び方もある。 1959年1月キューバ革命後、2月にフィデル・カストロが革命政権の首相に就任した。革命直後の新政権は当初アメリカへの敵対の意思は無かったが、カストロの国内政策を社会主義的と断定し対立の意思を示したアメリカは1961年1月に国交を断絶、その間にカストロ政権の転覆計画が密かに進められていた。そして国交断絶直後にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディは、前任のアイゼンハワー大統領時代にCIAを中心に進められていたキューバ侵攻計画を承認して、1961年4月15日にキューバ軍機に偽装した爆撃機がキューバ空軍飛行場を爆撃し、17日から亡命キューバ人の上陸部隊がピッグス湾(コチノス湾)にあるヒロン浜(プラヤ・ヒロン)に上陸侵攻を開始した。だが、ソビエト連邦の援助を受けたキューバ軍は19日まで上陸地点のヒロン浜に封じ込め、ピッグズ湾に閉じ込められた反カストロ軍『二五〇六部隊
概要
この事件の直後、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言し、ソ連への接近を強め、その翌年秘密裡に軍事協定を結び、核ミサイルを持ち込んだ結果1962年10月にキューバ危機が起きることになる。
キューバ革命後の両国関係フィデル・カストロ(右)とチェ・ゲバラ(左)(1961年)
1959年1月に発生したキューバ革命により、アメリカが支援していたフルヘンシオ・バティスタ大統領の政権は崩壊し、2月にゲリラ軍を率いたフィデル・カストロが革命政権の首相に就任した。カストロ首相は当初は「アメリカ合衆国に対して友好関係を保つ」と表明しその直後にアメリカを訪問した[注 2]。
しかし、それまでに国内でバティスタ政権の有力者を処刑したり、また農地改革を進める姿勢を示したことでCIAの報告により「共産主義者」との疑いをもたれていたことなどから、バティスタ政権を背後から操り多くの利権を得ていたアメリカにとって、それらが侵害される恐れがあったため、アイゼンハワー大統領のカストロに対する対応は冷たかった。そしてニクソン副大統領との会談で、ニクソンから共産主義の影響拡大、反革命派処刑、自由選挙の未実施を並べて問い詰められて怒りを抑える始末であった[3]。
この直後、ニクソンはアイゼンハワーに、カストロは打倒すべき人物であり、キューバ人亡命者部隊を編成してキューバに侵攻すべきである、と進言した。これが2年後のピッグス湾事件につながった[3]。 1959年5月にカストロは農地改革を断行し、6月にアメリカの資産を国有化したため、アイゼンハワー大統領は対抗策としてキューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取る形で禁輸措置に踏み切った。これに反発したカストロ首相は、弟のラウル・カストロを冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソ連の首都モスクワに派遣し、1960年2月にアナスタス・ミコヤン第一副首相がハバナを訪問し、1億ドルの借款供与、砂糖買い付け、武器売り渡しを柱とする経済協力協定を結んだ[4]。 アメリカ合衆国本土のすぐ隣の国であるキューバがソビエト連邦と手を組む事態を受けて、アメリカは共産主義国家の脅威を間近で感じることになった。 1961年1月3日にはキューバに対して国交断絶を通告した[注 3]。
国交断絶