そして、ヒロン浜に上陸用舟艇で上陸した部隊と落下傘でサパタ湿原東部に降下した部隊とが合流して、湿原と内陸を通じる幹線道路に展開し、大統領命令が出れば沖に待機したアメリカ軍空母から艦載機が出撃し、さらにこれらが援護した輸送機が空から武器弾薬を落下傘で降ろし、海兵隊が上陸する予定であった[13]。 このキューバ侵攻作戦を実行した部隊を亡命者旅団、亡命軍、亡命キューバ人グループ、亡命キューバ人部隊、反革命派キューバ軍、反カストロ軍など名称は様々であるが、当時アメリカでは『二五〇六部隊』と命名されていた。ただ『反革命傭兵軍』というのはカストロ政権の側からの呼称であり、傭兵ではなく、いわゆる外人部隊ではない。実際にキューバから逃れ、カストロ体制を転覆させるためにCIAの訓練をグアテマラで受けた後に故国に上陸した部隊である。 フィデル・カストロがこの傭兵部隊と呼んだグループについて、「士官や隊長は殆ど例外なく旧バチスタ政府軍の将校であった。兵卒の多くはかつての大地主や富裕層の息子であった。このことからあの侵攻事件の階級的性格が明確に浮かび上がる」と語っている[14]。 臨時政府首班になる予定であったホセ・ミロー・カルドーナは1959年1月の革命に馳せ参じて、カストロと共同して革命政権を樹立した人物であった。しかしすぐにカストロと袂を分かち、翌2月に首相のポストをカストロに譲ってアメリカに亡命し、この日にはラテンアメリカ諸国に侵攻部隊への支援と連帯を求める声明を発表して、彼の息子もこの作戦に参加していた。そして息子は捕虜となった。後にケネディ大統領と面会している。 作戦失敗後に降伏して捕虜となったキューバ人上陸部隊1189名はその後身柄をキューバからアメリカが受け入れた。しかしこれらのグループはケネディ大統領への反感を露わにしていた。 ケネディ大統領は記者会見を行い、失敗の全ての責任が計画の実行を命じた自分にあることを認めていた。しかし、同時にCIAに対しては軍事行動の失敗の責任を追及し、ダレスCIA長官、チャールズ・カベル
二五〇六部隊
事件後
責任の所在ケネディとダレス
その後ケネディは軍部とCIAを全く信用しなくなった。そして軍事・情報分野の助言者に対しても懐疑的になった。軍部やCIAとの関係は冷え込んでいった。そのことが翌年1962年10月のキューバ危機で、空爆を強く主張する軍部の意見を抑えて、海上封鎖にもっていく高い手腕にケネディの評価が表れている。 そしてこのキューバ危機の解決策としてフルシチョフに以降キューバに武力侵攻しない約束をしたことが、亡命キューバ人たちを怒らせた。翌1963年3月になるとケネディは公然と亡命キューバ人の軍事行動にブレーキをかけ始めた。彼らの部隊を使わせないようにして余計に怒らせた[16]。 1963年11月のケネディ大統領暗殺事件直後、当時の司法長官でケネディ大統領の実弟のロバート・F・ケネディはジョン・マコーンCIA長官を自宅に呼び出して、「CIAが殺したのか」と詰問してマコーン長官が即座に否定した。ロバートはキューバでの最初の大失敗でCIAにも亡命キューバ人に対してもケネディ兄弟に対する反感が根強いと感じていた。実際、ピッグス湾事件に参加し捕虜となりその後身柄をアメリカに送られた亡命キューバ人グループは反カストロ感情とともに、「ピッグス湾で最後に裏切った」とされたケネディに対する反感は強いものがあった。後に亡命キューバ人グループの指導者ハリー・ウィリアムズに向かってロバートは「君のところの誰かがやったんだろう」と声をかけている[17]。 それまでキューバ革命は特に「社会主義革命」と宣言されていたわけではなかったが、カストロ首相は1961年5月1日のメーデー演説で「社会主義革命であった」と正式に宣言するとともに、軍備増強の必要性を認識し、ソビエト連邦や東ドイツ、北朝鮮をはじめとする社会主義体制、共産党政権の東側諸国との友好関係の確立を図り、これ以降急速に東側諸国と同盟および友好関係を築くことになる。 反カストロ軍の名称も様々なら、事件の名称も様々である。ピッグス湾事件、コチノス湾事件、プラヤ・ヒロン侵攻事件、ヒロン浜侵攻事件、ヒロン海岸侵攻事件、あるいは第一次キューバ危機などで、日本でも当初ピッグス湾事件と呼ばれ、やがてコチノス湾事件と呼ばれていた。最近ではプラヤ・ヒロン侵攻事件あるいはヒロン浜侵攻事件と呼ばれている。
亡命キューバ人とケネディ暗殺事件
社会主義革命
事件の名称
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