ピッグス湾事件
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そして事前の爆撃(4月15日)が大幅に削減されたので政府軍の航空戦力を撃破出来ず、結果上陸部隊は空からの援護がなく、むしろ政府軍の空からの攻撃に耐えながら上陸を敢行せざるを得なかった[10]。しかもそこにはサンゴ礁があった。

ケネディ政権の大統領顧問だったテッド・ソレンセンは後に著書「ケネディの道」の中で、作戦の失敗の原因として
作戦の秘密保持が出来なかったこと[注 6]

上陸後の山岳地帯までの退避行動が全く計画されていなかったこと

上陸部隊がアメリカ軍の公然たる支援を想定し国内の地下組織と合流するという誤った想定を持っていたこと

キューバ国内のカストロに反対する地下組織の助力や民衆の蜂起で上陸部隊を助けるものとCIAは考えていたが実際はカストロの支配が強くその活動は皆無であったこと

1961年4月の時点で作戦行動に移ったのは、以後カストロ政府軍が強化されると予測し弱い今のうちに実行すると判断したためであったが、実際はカストロ政府の軍事力はすでに強化されていたこと

などの作戦自体に現実とのギャップがあったとしている。

さらにケネディ政権側にとっては、
政権がスタートしてまだ日が浅く、閣僚やスタッフとの円滑なコミュニケーションが醸成されるにはまだ新しい政府であったこと

少数の関係者以外は作戦の存在すら知らず計画の細目を検討する時間も機会もなかったこと

新しい政府がまだ完全に機能するまでには至らずCIAと統合参謀本部だけでの作戦立案であったことが他からの意見聴取を難しくしたこと

などの原因を挙げている。
想定していた計画詳細は「es:Brigada de Asalto 2506」および「en:Brigade 2506」を参照

「約1500人の『反革命傭兵軍』を各200人の7個大隊に編制。5隻の輸送船に分乗しヒロン浜に上陸。これより前に夜明けとともに降下大隊の1個大隊がヒロン浜とサパタ沼を結ぶ舗装道路を制圧するために落下傘で降下。この降下部隊がヒロン浜の端を制圧し次第、そこへ反革命キューバ人らを空路により輸送。臨時政府をでっち上げ、その要請によりアメリカ海兵隊が海空からの攻撃支援を受けながら上陸することになっていた。」[11]これは2011年に出版された「フィデル・カストロ?みずから語る革命家人生?」において、イグナシオ・ラモネのインタビューに対してカストロ自身が語った言葉である。

この時、上記のように数マイル沖にはアメリカ海軍が空母エセックスを含む第四艦隊の艦船を待機させており、海兵隊員も乗っていた。あくまでキューバ国内での臨時政府の要請を受けて、海兵隊が上陸する手はずであった。この臨時政府の首班[注 7]に予定していたのは1959年1月のキューバ革命直後に首相に就任したホセ・ミロー・カルドーナ[12]、フィデル・カストロは彼の教え子でもあった。しかし、この時にはフロリダ州のアメリカ軍基地にいた。

そして、ヒロン浜に上陸用舟艇で上陸した部隊と落下傘でサパタ湿原東部に降下した部隊とが合流して、湿原と内陸を通じる幹線道路に展開し、大統領命令が出れば沖に待機したアメリカ軍空母から艦載機が出撃し、さらにこれらが援護した輸送機が空から武器弾薬を落下傘で降ろし、海兵隊が上陸する予定であった[13]
二五〇六部隊

このキューバ侵攻作戦を実行した部隊を亡命者旅団、亡命軍、亡命キューバ人グループ、亡命キューバ人部隊、反革命派キューバ軍、反カストロ軍など名称は様々であるが、当時アメリカでは『二五〇六部隊』と命名されていた。ただ『反革命傭兵軍』というのはカストロ政権の側からの呼称であり、傭兵ではなく、いわゆる外人部隊ではない。実際にキューバから逃れ、カストロ体制を転覆させるためにCIAの訓練をグアテマラで受けた後に故国に上陸した部隊である。

フィデル・カストロがこの傭兵部隊と呼んだグループについて、「士官や隊長は殆ど例外なく旧バチスタ政府軍の将校であった。兵卒の多くはかつての大地主や富裕層の息子であった。このことからあの侵攻事件の階級的性格が明確に浮かび上がる」と語っている[14]

臨時政府首班になる予定であったホセ・ミロー・カルドーナは1959年1月の革命に馳せ参じて、カストロと共同して革命政権を樹立した人物であった。しかしすぐにカストロと袂を分かち、翌2月に首相のポストをカストロに譲ってアメリカに亡命し、この日にはラテンアメリカ諸国に侵攻部隊への支援と連帯を求める声明を発表して、彼の息子もこの作戦に参加していた。そして息子は捕虜となった。後にケネディ大統領と面会している。

作戦失敗後に降伏して捕虜となったキューバ人上陸部隊1189名はその後身柄をキューバからアメリカが受け入れた。しかしこれらのグループはケネディ大統領への反感を露わにしていた。
事件後
責任の所在ケネディとダレス

ケネディ大統領は記者会見を行い、失敗の全ての責任が計画の実行を命じた自分にあることを認めていた。しかし、同時にCIAに対しては軍事行動の失敗の責任を追及し、ダレスCIA長官、チャールズ・カベル副長官を更迭した。後任にはジョン・マコーンを就任させた。後の記者会見で「古いことわざにあるように、勝利した者には百人の生みの親が集まるが、敗北した者には一人も集まらない孤児(みなしご)だというのがある。私は政府の責任者であり、これはきわめて明白なことです」と語っている。その後長い交渉の末、1962年暮れまでに捕虜の大半をカストロは釈放し身柄をアメリカに送った。医薬品と食糧合計5300万ドルがアメリカからキューバ政府に支払われた[15]

その後ケネディは軍部とCIAを全く信用しなくなった。そして軍事・情報分野の助言者に対しても懐疑的になった。軍部やCIAとの関係は冷え込んでいった。そのことが翌年1962年10月のキューバ危機で、空爆を強く主張する軍部の意見を抑えて、海上封鎖にもっていく高い手腕にケネディの評価が表れている。


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