ピッグス湾事件
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また上陸地点がピッグス湾に変更になったが、そこにサンゴ礁があることを誰も予期しておらず、また上陸後に苦戦となった場合は反カストログループがいるエスカンプライ山脈に逃げ込む予定であったが、上陸地点をピッグス湾に変更してそれが不可能となったのである[8]。CIAは作戦失敗のリスクを過小評価していた。
爆撃の失敗キューバ政府軍機に偽装したアメリカ空軍のA-26インベーダー。フロリダ州の博物館に現存するもの

1961年4月初旬に、アメリカ海軍空母「エセックス」は、「2週間の通常訓練航海」の名目でフロリダ沖を航行した。この時、「エセックス」は12機のA4D-2スカイホークを搭載していた。A4Dは20ミリ機銃で武装されており、数日後には識別標識は機体と同じグレーの塗装で塗りつぶされ、「戦闘哨戒飛行」のため昼夜を問わず飛行するようになった。乗員のほとんどには知らされていなかったが、一連の行為はピッグス湾事件で出動することになる爆撃機護衛を目的とした任務であった。

4月15日朝6時頃に、反カストロ軍はキューバ政府軍機に偽装したアメリカ空軍の旧型攻撃機、A-26によりキューバ軍基地を空襲した。この日キューバ国籍のマークを付けた8機がニカラグア東岸プエルト・カベサスにある秘密のCIA航空基地から発進し、上陸作戦支援のための予備的攻撃を加えたが、結果は政府軍が所有する36機の戦闘機のうちわずか5機を破壊するに留まった。

最初の空爆でキューバ空軍機を壊滅して制空権を反カストロ軍が確保するはずが、空爆が不十分で制空権を奪えず、またアメリカ海軍空母艦載機からの支援もなかった。これが2日後に政府軍の空襲で上陸作戦に支障をきたすこととなった。数時間後にはキューバ外相ラウル・ロアがニューヨーク国連本部で「アメリカの仕業」として非難した。
上陸作戦の実行ヒロン浜沖合の上空を飛行する空母「エセックス」のダグラスA-4D2

続いて4月17日にピッグス湾(コチノス湾)ヒロン浜への上陸を開始した。グアテマラで武器の供与を受け訓練されて上陸した反カストロ軍「二五〇六部隊」は1500人以下にすぎず、政府軍が約20万人で迎え撃った。また制空権が確保されず、政府軍のロッキードT33ジェット機から爆撃を受けて武器弾薬や食糧そして医療品などを積んだ2隻の物資補給船が撃沈されるなど補給経路が早々に破壊されたことで、弾薬・食糧・医療品が早く尽きてヒロン浜に閉じ込められて劣勢に立たされた。

窮地に立たされたCIAと軍は、ケネディ大統領に上陸部隊を救うためにアメリカ軍の直接介入を求め、かねてからヒロン浜の沖合に待機していた「エセックス」からのジェット戦闘機による支援を求めたのであった。しかし最終的に大統領はこれを拒否した。

その後、アメリカ政府内が混乱してケネディ大統領の命令によりアメリカ軍の戦闘機による次の爆撃機への援護に出発したが、時差を計算せず正確な時刻が明確でないままに先に爆撃機が飛び立ち、援護は成功しなかった[9]。そして4月19日に完全に撃退されて政府軍に投降し114名が戦死、1189名が捕虜となって侵攻作戦は大失敗に終わった。
敗因

CIAがキューバ政府軍の勢力を過小評価し「キューバ軍の一部が寝返る」という根拠がない判断をするなど杜撰な作戦計画であったこと、事前に作戦の実施がキューバ側に漏れていたこと、ケネディ大統領への説明が不十分で軍部・CIAと政府内での作戦の認識にズレがあり、命令が二転三転したことなどが失敗の最大の原因とみられている。

もともとアイゼンハワー政権時代に立案された計画では、亡命キューバ人グループを訓練して武装させて、そしてキューバ中部のエスカンプライ山脈上空から投下して、カストロに反対する現地キューバ人グループと合流させることであった。ところがカストロ政権が脆弱であるという誤った認識と政権転覆に必要な戦力の予測がまた誤っていて最初から問題があった作戦であった。そこへ作戦担当のリチャード・ビッセルが亡命キューバ人部隊の上陸地点を中部の山岳から南部のトリニダ付近の海岸から上陸させることに変更し、そして大統領との協議の末に実行直前にエスカンプライ山脈(これより先に革命後に反カストロに走ったグループがこの山岳に逃げ込んでいた)よりさらに遠い西方のヒロン浜に変更した。そこは遮蔽物も退避すべき場所(最初の案では上陸時に劣勢の場合は近い山岳に逃げる計画であった)もなかった。そして事前の爆撃(4月15日)が大幅に削減されたので政府軍の航空戦力を撃破出来ず、結果上陸部隊は空からの援護がなく、むしろ政府軍の空からの攻撃に耐えながら上陸を敢行せざるを得なかった[10]。しかもそこにはサンゴ礁があった。

ケネディ政権の大統領顧問だったテッド・ソレンセンは後に著書「ケネディの道」の中で、作戦の失敗の原因として
作戦の秘密保持が出来なかったこと[注 6]

上陸後の山岳地帯までの退避行動が全く計画されていなかったこと

上陸部隊がアメリカ軍の公然たる支援を想定し国内の地下組織と合流するという誤った想定を持っていたこと

キューバ国内のカストロに反対する地下組織の助力や民衆の蜂起で上陸部隊を助けるものとCIAは考えていたが実際はカストロの支配が強くその活動は皆無であったこと

1961年4月の時点で作戦行動に移ったのは、以後カストロ政府軍が強化されると予測し弱い今のうちに実行すると判断したためであったが、実際はカストロ政府の軍事力はすでに強化されていたこと

などの作戦自体に現実とのギャップがあったとしている。

さらにケネディ政権側にとっては、
政権がスタートしてまだ日が浅く、閣僚やスタッフとの円滑なコミュニケーションが醸成されるにはまだ新しい政府であったこと

少数の関係者以外は作戦の存在すら知らず計画の細目を検討する時間も機会もなかったこと

新しい政府がまだ完全に機能するまでには至らずCIAと統合参謀本部だけでの作戦立案であったことが他からの意見聴取を難しくしたこと

などの原因を挙げている。


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