ピッグス湾事件
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母国を脱出してきた亡命者1,500人をゲリラ軍として組織化し、CIAの軍事援助と資金協力の下でキューバ上陸作戦を敢行させるため、1954年のPBSUCCESS作戦により親米軍事政権が成立していたグアテマラの基地においてゲリラ戦の訓練を行った。退任間近だったアイゼンハワー大統領はやがてキューバ問題から手を引き、その後は共和党の次期大統領候補ともなるリチャード・ニクソン副大統領やCIAのアレン・ダレス長官らがこの作戦計画を進めた。

その間、作戦は当初のゲリラ戦から通常戦に変更する決定が下された。そして、兵員数と物資で圧倒的に劣る反カストロ軍がキューバ政府軍に勝つために、アメリカ軍の正規軍の介入が計画に組み入れられた。1960年11月に大統領選挙が行われ、1961年1月20日ジョン・F・ケネディが大統領に就任した。
CIAの計画ジョン・F・ケネディ大統領とロバート・マクナマラ国防長官ピッグス湾上陸の予行演習を行うキューバ人亡命者

大統領選挙に当選したばかりのケネディは、就任前にCIAのダレス長官からこの作戦計画の説明を受けた時はことの重要さと大胆さに仰天した。その後ライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長とバーク海軍作戦部長の専門的意見を聞いたがいずれも成功する作戦として問題ないというものであった。

1961年4月4日[注 4]、キューバでの作戦行動について国務省で最後の会議が開かれた。大統領の他にディーン・ラスク国務長官ロバート・マクナマラ国防長官C・ダグラス・ディロン財務長官J・ウィリアム・フルブライト上院外交委員長、アーサー・シュレジンジャー大統領顧問、アレン・ウェルシュ・ダレスCIA長官、チャールズ・カベル副長官、リチャード・ビッセル担当官、そしてライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長などの顔ぶれであった[6]

ダレスCIA長官と作戦担当のリチャード・ビッセルがこの作戦の内容を説明した。まずアメリカが介入するのではなくカストロ政権が成立後にアメリカに避難した亡命者から約1400人がグアテマラでCIAによる軍事訓練を受けており、この1400人が陸海共同でキューバへの上陸作戦を展開し、上陸が成功すればキューバ国内の反政府抵抗組織2500人と同調する反カストログループ約2万人が行動を起こし、これに鼓舞されて情報機関の推定で総人口の25%を占めるカストロに反感を示す大衆が蜂起する、というものだった[7]。反カストロ軍の空軍部隊がカストロ政府軍の飛行場を爆撃して最初に制空権を奪う。カストロ政府の空軍は経験のあるパイロットがおらず、全く組織化されていないので二度の爆撃で十分であり、この計画の成功は空軍の無力化にかかっている。そしてカストロ政府の空軍が事前爆撃で完全に破壊されると海からの上陸後にまず「キューバ革命委員会」が臨時政府樹立を宣言し、もしうまくいかなかった時は近くの山に逃げ込みゲリラ戦術を展開する、このビッセルの説明に反対を表明したものはいなかった。

ケネディはあくまでアメリカの介入には慎重であった。当時ベルリンが危機的な状況で、キューバを口実にフルシチョフがベルリン問題で軍事的行動を起こすことを恐れていた。しかしダレス長官の正規軍を介入させないとする説明で(実際はCIAは反カストロ軍にアメリカ軍の応援を確約していた)、ケネディは作戦の実行を承認したがアメリカの直接の関与が露見しないように、最初の空襲での爆撃機の数を減らし、その際に上陸地点の変更(夜間上陸に適しているという理由で)を命じた。これは結果として作戦に大きな障害となった[7][注 5]。また上陸地点がピッグス湾に変更になったが、そこにサンゴ礁があることを誰も予期しておらず、また上陸後に苦戦となった場合は反カストログループがいるエスカンプライ山脈に逃げ込む予定であったが、上陸地点をピッグス湾に変更してそれが不可能となったのである[8]。CIAは作戦失敗のリスクを過小評価していた。
爆撃の失敗キューバ政府軍機に偽装したアメリカ空軍のA-26インベーダー。フロリダ州の博物館に現存するもの

1961年4月初旬に、アメリカ海軍空母「エセックス」は、「2週間の通常訓練航海」の名目でフロリダ沖を航行した。


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