1987年、ファースト・アルバム『couples』をリリースするが全く売れず、CBS・ソニー側から「ライヴの出来るボーカリストと交代」を要求される等の事情もあり同年、鴨宮と佐々木の2人が脱退。当時、既にORIGINAL LOVEでの活動を開始していた田島貴男を2代目ボーカルに迎える。
1988年、セカンド・アルバム『Bellissima!』[4][5]、
1989年、サード・アルバム『女王陛下のピチカート・ファイヴ』[4]発売。
アルバムリリースを重ねるごとに熱心なファンを作り出すことに成功。一部では話題となるが、いずれも商業的な成果を残すことができず、クラブに通う若者や流行に敏感な者だけが熱狂的に支持するハウス系バンドとして認識されていた[2]。 1990年、日本コロムビア/SEVEN GODS RECORDS(当時の所属事務所 グレイテスト・ヒッツの代表・麻田浩主宰)に移籍(後にTRIADへ転籍)。移籍の背景は、前所属レコード会社、CBS・ソニーの販売戦略に対する疑問があった(アルバム『月面軟着陸』のノベルティが、アームストロング船長を由来にした運動器具だったり、シングル盤のリリースもなかった)。 移籍と同時に翌年田島がORIGINAL LOVEの活動に専念するため脱退。レコーディングやライブでサポート・ボーカルをしていた元ポータブル・ロックの野宮真貴を3代目ボーカルに迎える。野宮は、正式加入以前からコーラス等で参加。CBS・ソニー最後のリリースとなったシングル「ラヴァーズ・ロック」(後にTokyo's Coolest Soundに発展)にボーカルとして参加している。高浪慶太郎が「高浪敬太郎」に改名。 1991年、高浪敬太郎コンボ&オーケストラ(野宮参加・小西も2曲参加、「大人になりましょう」のプロトタイプとなる曲も収録)として5月21日にフジテレビ系テレビドラマ「学校へ行こう!」のサウンドトラックCD『学校へ行こう! オリジナル・サウンドトラック ?Hi,guys! Let me teach you
レコード会社移籍と3代目ヴォーカル
1993年、4月発売の「SWEET SOUL REVUE」[2]は、カネボウ化粧品「REVUE」シリーズ春のキャンペーンソングという大型タイアップを掴み、スマッシュ・ヒット[2]。バンド名が広く知れ渡るきっかけの楽曲となった。同年6月発売アルバム『ボサ・ノヴァ2001』(小山田圭吾と共同プロデュース)はオリコンチャートで最高7位を獲得。12月リリースシングル「東京は夜の七時」(タイトルは矢野顕子の曲から引用)が、別ヴァージョンながらフジテレビ系『ウゴウゴルーガ2号』のオープニング曲に採用され更に知名度を高め、一気に一流アーティストの仲間入りを果たした。
1994年、ミニ・アルバム『5×5』をアメリカのマタドールレコード(Matador Records) からリリースして北米デビュー。次作アルバム『MADE in USA』も全世界での売上が20万枚に達した。
同年9月、アルバム『Overdose』リリース発表直前に高浪が脱退。その後、2001年の解散まで小西・野宮の2人体制で活動していくことになった。
1995年2月からはアメリカおよびヨーロッパの14都市でツアーを行い、成功を収める。3月に初のベスト・アルバム『ピチカート・ファイヴTYO?Big Hits and Jet Lags 1991-1995』をリリース。
1996年3月に発売されたシングル「ベイビィ・ポータブル・ロック(ポータブル・ロックは、かつて野宮の所属したユニット名)」(日産・ミストラルCMソング)がヒットを記録。12月に発売されたシングル「メッセージ・ソング」は発売された月から翌年1月までの2か月間、NHKの音楽番組『みんなのうた』で放送された(その後も数回放送されている)。