ピサ
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これは河川の水運の規模の大きさと、強力な防衛力に支えられていた。7世紀、ピサはローマ教皇グレゴリウス1世 に対し、教皇が行うラヴェンナの対東ローマ帝国軍事遠征においておびただしい数の船舶を供給することで支援した。ピサは、トスカーナ(当時はトゥスキア)が自らの通商権が妨げられた近郊地域とともに同化したことで、大した抵抗もなくロンゴバルド族の手に陥ちた中、たった一つ残った東ローマ帝国の中心であった。ピサはこのやり方で北ティレニア海の主要港としてその存在を重くし、トスカーナ=コルシカ島およびサルデーニャ島フランススペインの南岸間の主要貿易中心地となった。

カール大帝が、ロンゴバルド王デジデリウス指揮のロンゴバルド軍を774年に打破した後、ピサは危機を迎えたがすぐに回復した。政治的にはルッカ公国の一部となった。930年、ピサはトゥスキアの辺境侯内の州都となった(この地位は神聖ローマ皇帝オットー1世が即位するまで保持された)。ルッカは首都となったが、ピサはそれをしのぐ最重要都市となった。10世紀半ばのクレモナ司教リウトプランドは、ピサを『トゥスキア州の首都』(Tusciae provinciae caput) と呼んだ。そして一世紀後、トゥスキア辺境侯はピサ侯と普通に称されるようになった。1003年、ピサは、ルッカの方針に反し、イタリアにおける最初のコムーネ戦争の主役となった。海軍の要衝としての観点から、9世紀以降サラセン人海賊の出現が市をその海軍力の拡大に駆り立てることとなった。続く年月、この海軍力がピサにさらなる拡大の機会を与えた。828年、ピサ艦隊が北アフリカを猛襲した。871年、ピサ艦隊はサラセン人からのサレルノ防衛の主力となった。970年、ピサ艦隊は、カラブリア沿岸の前線で東ローマ帝国艦隊を打ち負かすという、オットー1世の遠征に強力な支援も行った。
11世紀ピサ共和国の旗。イタリア海軍旗を構成する歴史的なイタリア海洋共和国旗の一つ詳細は「ピサ共和国」を参照

ピサの力は強固な海運国家として成長し始め、歴史的なイタリアの海洋国家4つのうち1つ(その他の3つとは、アマルフィ共和国ジェノヴァ共和国、そしてヴェネツィア共和国)に数えられる伝統ある栄誉を獲得した、11世紀に頂点に達した(レプブリケ・マリナーレ)。

当時、ピサは非常に重要な貿易市であり、突出した地中海商人の艦隊および海軍によって管理されていた。1005年、南イタリアのレッジョ・カラブリア略奪によってその勢力を伸ばした。ピサは絶え間なく、サルデーニャやコルシカを基地とし、地中海を手中に置こうとするサラセン人と対立した。1017年、サラセン人王ムガヒドの敗北によって、ジェノヴァと同盟したピサがサルデーニャを陥落させた。この勝利は、ピサにティレニア海での覇権を与えた。ピサがその後サルデーニャからジェノヴァを追い出すと、新たな対立と敵対関係が2つの海洋共和国の間に生まれた。1030年から1035年の間、ピサはシチリアにおいていくつもの敵対する町を打ち負かすのに成功し、北アフリカのカルタゴを征服した。1051年から1052年、提督ヤコポ・チウリーニがジェノヴァからさらなる憤怒を挑発して、コルシカ島を征服した。1063年、提督ジョヴァンニ・オルランドはサラセン人海賊からパレルモを奪ったノルマン人ルッジェーロ1世の支援へ向かった。パレルモでサラセン人から黄金の財宝を奪うことをピサ人は許された(ピサ大聖堂や有名なミラコーリ広場を建てるためであった)。

1060年、ピサはジェノヴァとの最初の戦いに従事しなくてはならなかった。ピサの勝利が、地中海でのその地位を堅固にすることとなった。教皇グレゴリウス7世は1077年にピサ人によって施行された『海の慣習法』を承認した。そして皇帝ハインリヒ4世はピサに、長老会議で助言される独自の執政官を任命する権利を授けた。これは単純に当時の状況の確認であった。なぜならばそれまでピサ侯が既に権力から閉め出されていたからである。1092年、教皇ウルバヌス2世は、ピサをコルシカおよびサルデーニャにおける宗主国として認め、同時に町の地位を大司教座の位へ引き上げた。

1088年、ピサは北アフリカのマフディア(現チュニジア)を略奪した。4年後、ピサとジェノヴァの艦隊は、バレンシア王国エル・シッドを討つカスティーリャアルフォンソ6世を支援した。120隻ものピサ艦隊は第1回十字軍にも参加した。そしてピサ人は1099年のエルサレム占領において助けとなった。聖地へ至るピサの艦隊は、東ローマ帝国領の島々をいくつか略奪する機会を忘れなかった。ピサ人の十字軍はピサ大司教ダゴベルト(のちにエルサレム総主教となる)に率いられていた。ピサとその他の海洋共和国は十字軍で、シリアレバノンパレスチナの東地中海沿岸諸都市で通商地点や植民地をつくった。特にピサ人はアンティオキアヤッファトリポリティルスラタキヤアッコンに植民地をたてた。彼らはエルサレムとカエサリアにも別の所領を持ち、加えてカイロアレクサンドリアに、より小さな自治権を持つ植民地を抱えていた。もちろんコンスタンティノープルにも、皇帝アレクシオス1世コムネノスから特別な係留許可と通商権とを授けられていた。これら全ての都市で、ピサ人は特権と徴税免除権を授けられていた。しかし都市が攻撃された場合は防衛に貢献しなければならなかった。12世紀、コンスタンティノープル東部にあるピサ人居住区は人口1,000人に成長していた。12世紀の数年間、ピサはヴェネツィア共和国に打ち勝ち、東ローマ帝国と軍事同盟を結んだ国家であり、最も地位に揺るぎない商人となっていた。
12世紀大聖堂付属洗礼堂

1113年、ピサと教皇パスカリス2世は共にバルセロナ伯とその他プロヴァンスおよびイタリア諸侯(ジェノヴァを閉め出している)と組んでムーア人からバレアレス諸島を解放する戦争を始めた。マジョルカの王・王妃は鎖につながれてローマへ連行された。ムラービト朝はすぐに諸島を再征服したのだが、戦利品はピサ人が壮麗な建物の部品とするため持ち出していた(特に大聖堂建設のため)。ピサは西地中海における最高位を狙える地位を得た。

その後数年の強力なピサ艦隊は、ピエトロ・モリコーニ大司教に率いられ、残忍な戦闘の後にサラセン人を海へ投げ込んだ。短期間ではあるが、ピサのこのスペインにおける戦勝はジェノヴァとの敵対関係を悪化させた。ピサの対ラングドック貿易、対プロヴァンス貿易(ノーリサヴォーナフレジュスモンペリエ)は、イエールフォスアンティーブマルセイユのような都市でジェノヴァ勢力の障害となったのである。

1119年にジェノヴァが、母国へ戻る途中の数隻のピサ船舶に攻撃したことで戦争が始まり、1133年まで続いた。2都市は互いに陸海で争ったが、戦闘行為は海賊のような猛攻と略奪に限られていた。

1135年6月、クレルヴォーのベルナルドゥスがピサ会議の主導者となり、彼は1130年に選出された教皇アナクレトゥス2世に対抗してインノケンティウス2世の権利を援護した。アナクレトゥス2世はノルマン人支持を得て教皇に選出されたが、ローマの外では正式な教皇に認められていなかった。インノケンティウス2世はジェノヴァとの対立を解消すべく、ピサとジェノヴァそれぞれの領域を取り決めた。 ピサは決定にならったが、ジェノヴァによって妨げられた。シチリア王ルッジェーロ2世とインノケンティウス2世の対立が関係していたためである。海洋共和国の一つアマルフィ共和国(ノルマン支配に変わってから既に衰退し始めていた)を、ピサが1136年8月6日に征服した。ピサは港に停泊する船舶を破壊し、周辺地域の複数の城を略奪、そしてアヴェルサからルッジェーロ2世が送り込んだ軍を後退させた。この勝利がピサをその権力の頂点へ導き、ヴェネツィアと対等の位置へと押し上げた。2年後、ピサ兵がサレルノを略奪した。

続く数年、ピサはギベリン(皇帝派)の忠実な支持者の一つであった。これが皇帝フリードリヒ1世によってさらに評価された。彼は1162年と1165年に2つの重要な公文書と、以下の特権を授けた。『ピサの田園地帯における司法権から帝国が手を引くこと、ピサ人は神聖ローマ帝国全土、チヴィタヴェッキアポルトヴェーネレパレルモの半分、メッシーナ、サレルノ、ナポリ、ガーエタ全体、マーザラ・デル・ヴァッロ、トラーパニなど沿岸都市で貿易の自由が授けられること、シチリア王国の全ての都市でピサ商人の家が通りに建てられること』。


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