ピクト人
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西暦83年にピクトの連合軍とローマ軍モンス・グラウピウスの戦いで戦ったことを、ローマ人タキトゥスが『アグリコラ(英語版)』(西暦98年)に書き残しているのが、文献に残された初めてのピクト人の記録である。なお、この戦いにローマ軍が大勝したと記録には残されているが、実際にローマ軍の犠牲者が少なかったことを除けば戦果は不明である。ベーダ・ヴェネラビリスによればローマ皇帝ホノリウスの時代に北のピクト人は西のスコット人とともにブリタニアを圧迫し、ローマ軍が去るたびに町や要塞を襲ったという[4]

6世紀以後、ピクト人は侵略してくる西のダルリアダン・スコット部族と東のヴァイキングと衝突を繰り返した。ダルリアダ王国に対しては軍事的に優位を保ったが、相互に政治的な婚約を繰り返し、融合していった。843年ケネス1世が、諸王国を統一し初代のスコットランド王となった。

ゲール文化とスコットランド・ゲール語にピクト文化とピクト語は融合し、吸収されていった。ピクト人をケルト人に含むべきかどうかは断定できないが、ブリトン系ケルト人であったと推測される。スコットランドの多くの地名に、かつてピクト人が居住していた痕跡が残されている。"Aber-"、"Lhan-"、"Pit-"、あるいは"Fin-" と地名についている場所がそうである。しかし、他の推測もされている。フェデリコ・クルトヴィッヒはピクト語とバスク語を比較し、ピクト人とバスク人は共にインド・ヨーロッパ語族以前のヨーロッパ先住民であると主張した。しかし、ピクト語の情報があまりにも少ないため、この主張を裏付けることはできない。
脚注[脚注の使い方]^ a b稲富博士のスコッチノート第6章 スコットランド人の起源バランタイン、サントリー、2002年2月
^ “古代の殺人ミステリー。暗殺された王族? 儀式の生贄?”. サライ.jp (2023年11月23日). 2023年11月23日閲覧。
^ J・G・フレイザー『金枝篇(二)』岩波文庫、1970年、P.25頁。 
^ ベーダ『英国民教会史』講談社学術文庫、2008年、P.34-35頁。 

関連項目

ブリテンの歴史

アイルランドイングランドスコットランド
先史時代
ゲール人ブリタンニアピクト人
オニール時代七王国ダルリアダ 
ノルマン朝イングランド王国アルバ王国
プランタジネット朝
国名同上アンジュー帝国とも)
独立戦争
百年戦争
ステュアート朝
薔薇戦争
テューダー朝
アイルランド王国イングランド王国スコットランド王国
国名同上)(国名同上)(国名同上
清教徒革命政教分離
イングランド共和国
王政復古


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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