ピカデリー
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通りは何世紀も主要な道路のひとつであるが、北側にあるオックスフォード・ストリートと違い、ローマ街道の一部だったかどうかは証拠が無い[8]中世には、「レディングへ至る道」や「コーンブルック(英語版)に至る道」として知られていた[9]チューダー朝 (Tudor period) では、比較的安定した社会状況から、安全な事業としてロンドンの都市拡張が行われた。不動産投機は利益の上がる事業となり、あまりに早く発展が進んだので、感染症や災害のおそれから、当局が開発を禁止するほどであった。成長の勢いで、法律の実効力はほとんど失われていた[10]

コヴェントリー(英語版)、シャーウッド、グラスハウス、ルパートという4つのストリートに囲まれた小区画と、スミス・コートの境界線は[注釈 5]、1559年から1560年にかけて、エリザベス1世からロンドンのジェントルマンであるウィリアム・ドディントン(英: William Dodington)に下賜された。1年少し後、この場所はビール醸造主である、セント・ボトルフ=ウィザウト=オールドゲイトのトーマス・ウィルソン(英: Thomas Wilson of St Botolph-without-Aldgate)の所有になった。譲渡された土地の中には、現在のグレート・ウィンドミル・ストリート(英語版)東側に当たる、.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1+3⁄8エーカーの小区画は含まれていなかった。それまでこの区画はクラウン・エステートに属したことがなかったと推測され、ヘンリー8世の治世下では、アンソニー・コットン(英: Anthony Cotton)という人物が所有していた。ジョン・コットンは1547年にこの土地をジョン・ゴライトリー(英: John Golightly)に譲渡し、その後ゴライトリーの子孫は、1611年から1612年頃に、この区画を仕立屋のロバート・ベイカー(英: Robert Baker)に売却した。それから6、7年後、ベイカーは2度目の結婚で入った財産に多くを頼りつつ、ウィルソンの所有していた22エーカーの土地を買い取った[10][注釈 6]

ベイカーはその後、流行のピカディル(英語版)の製造販売で経済的に成功を収める[5]。土地購入の直後、彼はこの土地をぐるりと囲み(教区民には収穫祭(英語版)に放牧する権利があった)、自宅や店舗など複数の建物を建設したが、2年の間に彼の自宅は「ピカディリー・ホール」(英: Pickadilly Hall)という名前で知られるようになった[10][11][12][注釈 7]。1658年にフェイソーン(英: Faithorne)が発行した地図には、既に「ナイツブリッジからピカデリー・ホールへの道」(英: "the way from Knightsbridge to Piccadilly Hall")との記述が見られる[14]。近くにあった博打場のシェイヴァーズ・ホール(英: Shaver's Hall)は、「タート・ホール」や「ピカディル・ホール」[注釈 8]と渾名され、ロンドンのジェントリに人気であった。1641年には、デル卿(英: Lord Dell)がここで3,000ポンド(2022年時点の£592,200と同等[15])を失ったと伝えられている[16]

ロバート・ベイカーが1623年に亡くなった後、長男のサミュエルも程なくして亡くなり、未亡人や彼女の父は、残った子どもたちの養育権を買い取った[10]。次兄のロバートが1630年に亡くなった後、彼らは地所を実質的に管理できるようになった[10]。2人の間のひとり娘が亡くなった後、やもめとなった夫のヘンリー・オクセンデン(英: Sir Henry Oxenden)が土地の所有権を引き取った。複数の親戚がこれに異論を呈したが[注釈 9]、1665年頃にメアリー・ベイカーが亡くなった後、土地は王室に変換された[10]。ロバートが大おじに当たるジョン・ベイカーは、土地の一部の所有権を持っていたが、親戚のジェームズ・ベイカーと土地の処遇で揉めた。決着を付けようとした挙げ句、彼らは金を払ったり、権利をオクセンデンやトーマス・パントン大佐(英: Colonel Thomas Panton)に譲ろうとするが、結局損をしただけだった。1670年代までにパントンは開発を始め、ベイカーの遠い親戚から文句はあったものの、着実に土地を発展させていった[10]
17世紀遅くセント・ジェームズ教会(英語版)は1684年にピカデリーへ建てられ、設計はクリストファー・レンが担当した

現在のピカデリーは、チャールズ2世の妻でポルトガル出身だったキャサリン・オブ・ブラガンザに因み、1663年に「ポルトガル・ストリート」(英: Portugal Street)と名付けられた[14]。交通上の重要性は、グリーン・パーク(英語版)建設のため、1668年にチャリング・クロスからハイド・パーク・コーナーへ至る既存の道が閉鎖されたことでさらに増す[8]。1660年のイングランド王政復古後、チャールズ2世はポルトガル・ストリートと道の北側地区(メイフェア)の発展を進め、地区は流行の住宅地となった[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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