ピエール・ブーレーズ
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シェーンベルクの『室内交響曲第1番』をモデルに書かれたフルートピアノのための『ソナチネ』、20世紀に作曲された最も重要なピアノ作品の1つである『ピアノソナタ第2番』、『弦楽四重奏のための書』などを経て、メシアンの『音価と強度のモード』の音列を引用した2台のピアノのための『ストリクチュール第1巻』でセリー・アンテグラルの技法に到達する。この作品はセリエルな作曲技法の1つの指標となったが、18楽器のための『ポリフォニーΧ』の場合のように、あまりに厳格なセリーの使用は不毛な音楽をもたらすことに気付き(同作品は結局撤回した)、より柔軟なセリーの運用を模索する。この探求は、アルトと6楽器のための『ル・マルトー・サン・メートル(主なき槌)』(ルネ・シャールの詩による)として実を結んだ。この作品は20世紀の最大傑作の1つであり、ブーレーズの名声を確立する。

その後、ジョン・ケージの偶然性の音楽に反発し、楽曲の細部は不確定ながらも全体の構造は作曲者によって制御される「管理された偶然性」を唱える。『ピアノソナタ第3番』やソプラノとオーケストラのための『プリ・スロン・プリ - マラルメの肖像』は、「管理された偶然性」による代表的な作品である。だが、『ピアノソナタ第3番』は2016年現在未だに全曲が公開されておらず、『プリ・スロン・プリ』は複数の改訂を経る過程で不確定的であった箇所が次第に確定されていった。これらの作品は「ワーク・イン・プログレス(進行中の作品)」と呼ばれるが、結局、彼の死により「完結」することとなった。

中期までの作品としてはその他、オーケストラのための『フィギュール‐ドゥーブル‐プリズム』(オーケストラ曲『ドゥーブル』の改作)、弦楽オーケストラのための『弦楽のための書』(初期の『弦楽四重奏のための書』の改作)、25楽器のための『エクラ・ミュルティプル』(15楽器のための『エクラ』を発展させたもので、未完)、16人の独唱と24楽器のための『カミングズは詩人である』、8群のオーケストラのための『リチュエル』(ブルーノ・マデルナを偲んで書かれた)、独奏チェロと6つのチェロのための『メサージェスキス』(パウル・ザッハーの70歳の誕生日を記念して書かれた)などが挙げられる。

1940年代後半から一貫して反復語法を忌み嫌っていた彼は、前衛の停滞以後の1970年代以降から急速に反復語法へ傾斜する形となり、等拍パルスやトリルなどを多用し固定された和声内での空間的な動きを特徴としてゆく。更に4Xと名づけたハードウェアを導入し、空間的及び時間的な様々な位相を伴う別々の周期パルスを過剰に組み合わす様式へ展開した。この様式で書かれた代表的な作品が、IRCAMの電子音響技術を応用した6人のソリストと室内オーケストラとライヴ・エレクトロニクスのための『レポン』である。

近年の作品にはクラリネットとテープの為の『二重の影の対話』(クラリネット独奏曲『ドメーヌ』の派生作品)、独奏フルート、室内オーケストラとライヴ・エレクトロニクスのための『エクスプロザント・フィクス(固定された爆発)』(70年代に作曲された可変的なアンサンブルとライヴ・エレクトロニクスのための作品の改訂版)、ヴァイオリンとライヴ・エレクトロニクスのための『アンテーム2』、3台のピアノ、3台のハープと3つの打楽器のための『シュル・アンシーズ』(ピアノ独奏曲『アンシーズ』の改作)などがある。
指揮活動

老年の境地に進むにつれて無駄が無く、なおかつ情緒に満ち溢れた指揮・演奏づくりを行うようになっていった。

1954年、現代音楽アンサンブルドメーヌ・ミュジカルを創設。

1958年よりドイツバーデン=バーデンにある南西ドイツ放送交響楽団を、病気のハンス・ロスバウトの代役として指揮し本格的に活動を開始。この頃からバーデン=バーデンが気に入り居住するようになる。

1963年、フランス国内で初めてアルバン・ベルクの「ヴォツェック」を指揮者として演奏した。

1967年、健康に陰りが見え始めたジョージ・セルをカバーする目的でクリーヴランド管弦楽団の首席客演指揮者に就任。

同年、大阪国際フェスティバル(バイロイト・ワーグナー・フェスティバル)で初来日。『トリスタンとイゾルデ』(トリスタン:ヴォルフガング・ヴィントガッセン、イゾルデ:ビルギット・ニルソン、マルケ王:ハンス・ホッター、管弦楽:NHK交響楽団)を指揮した。

1969年、『プリ・スロン・プリ』の自作自演を行い録音。

1970年、クリーヴランド管弦楽団とともに2度目の来日。来日した際のレセプション会場で、体が不自由でサングラスをして歩く志鳥栄八郎(音楽評論家、1926年1月24日-2001年9月5日)を見たブーレーズは声をかけ、志鳥がこの体は薬害のせいだと答えたところ、「日本の厚生省は何をやっているんですか!」と怒りをあらわにしたという。

1971年からはBBC交響楽団首席指揮者とニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督を兼ねた。この組み合わせでは、1974年にニューヨーク・フィルと、1975年にBBC響と来日。

1976年から1980年にはバイロイト音楽祭に出演。パトリス・シェロー演出の『ニーベルングの指環』は賛否両論を巻き起こした[6]


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