ピエル・パオロ・パゾリーニ
[Wikipedia|▼Menu]
1954年マリオ・ソルダーティ監督の『河の女』の脚本を共同執筆したことをきっかけに脚本家としての活動を始め、映画界に携わるようになった。翌1955年には処女小説『生命ある若者』を発表。発禁処分を受けたが、本作をきっかけに作家アルベルト・モラヴィアの知己を得た。1957年に発表した詩集『グラムシの遺骸』はヴィアレッジョ賞を受賞。同年、フェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』の脚本を共同執筆。以後も映画監督としてデビューするまでに10本以上の作品に脚本家として携わった。

1961年長編映画処女作『アッカトーネ』を発表。助監督は翌1962年にパゾリーニの原案を元にした『殺し』で映画監督としてデビューしたベルナルド・ベルトルッチが務めた。また、1961年にはモラヴィアと彼の妻エルサ・モランテとともにインドケニアを旅行した。パゾリーニは翌1962年から1963年にかけてもアフリカの各国を単身で訪れ、この体験が後の作品に見られる僻地での撮影に活かされた。

1964年、『マタイによる福音書』を忠実に映像化した『奇跡の丘』を発表。第25回ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞と国際カトリック映画事務局賞を受賞し、米アカデミー賞でも技術部門で3部門にノミネートされた。1966年にはイタリアの喜劇王とも言われた俳優のトトを起用した『大きな鳥と小さな鳥』を発表。第19回カンヌ国際映画祭で上映され、ロベルト・ロッセリーニの好評を得た。1967年にはソポクレスの戯曲『オイディプス王』を自伝的要素を内包して映画化した『アポロンの地獄』を発表。第28回ヴェネツィア国際映画祭では不評に終わったが、日本では1970年キネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。その後も『テオレマ』(1968年)や『豚小屋』(1969年)といった資本主義社会への批判を暗示した寓意的作品を発表するが、いずれの作品も大衆の支持を得られなかった。その他、1969年にはエウリピデスの悲劇『メディア』を映画化した『王女メディア』を歌手マリア・カラスを主演に起用して製作した。1960年代後半には映画や戯曲の相次ぐ不評や若い世代との思想的対立など、パゾリーニは一種の孤立状態に陥ったと言われている[2]

1970年代に入り、それまでの作品とは作風の異なる「生の三部作」と呼ばれる作品群を発表。ボッカッチョ同名小説を映画化した1作目の『デカメロン』(1971年)は第21回ベルリン国際映画祭審査員特別賞を、チョーサー同名小説を映画化した2作目の『カンタベリー物語』(1972年)は第22回ベルリン国際映画祭金熊賞を、『千夜一夜物語』を映画化した3作目の『アラビアンナイト』(1974年)は第27回カンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞し、いずれも好評を博した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef