ピエトロ・バドリオ
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内戦中に内閣改造を何度か行った後の1944年6月9日、ウンベルト2世は再びバドリオに組閣を命じたが入閣する顔ぶれが揃わなかった[3]。連合軍によるローマ占領に呼応してローマに帰還するも、ドイツ軍にまともに抵抗もせず、夜逃げ同然に首都を放棄したことで国民の支持を失っていたことも原因の一つとなっていた。このためイヴァノエ・ボノーミに首相の座を譲り、公職から身を引き、表舞台から姿を消した。1956年11月、故郷のグラッツァーノ・モンフェッラートで喘息発作により85歳の生涯を閉じた。
家族

バドリオは1904年にソフィア・ヴァラニア(Sofia Valania)と結婚し、三男一女をもうけた。彼の孫ピエトロ(1939年?1992年)は二代目アディスアベバ公爵の爵位を継承し、ベトナムの元皇帝バオ・ダイの娘と結婚。彼の長男フラヴィオ(1973年生まれ)が現在三代目アディスアベバ公爵を名乗っている。
逸話

ムッソリーニ失脚直後、第二次大戦中の枢軸国においてバドリオは「裏切り者」として映ったため、転じて裏切り者や敗北主義者のことを「バドリオ」ということがあった。

近年、バドリオが第二次エチオピア戦争中に行った毒ガス攻撃や無差別爆撃は戦争犯罪に当たるとして、対エチオピア戦に限ればバドリオは戦争犯罪人であるという意見が出てきている。
出典[脚注の使い方]^ ムッソリーニ首相、エチオピア併合宣言『東京朝日新聞』昭和11年5月7日夕刊
^ ムッソリーニ首相辞任、後任バドリオ(昭和18年7月27日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p404-p405 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 首相にボノミ、共産党が入閣(昭和19年6月11日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p409 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

関連項目

イタリアの降伏

参考文献

三宅正樹ほか編「イタリアの降伏とバドリョ政権の成立」『第二次大戦と軍部独裁,昭和史の軍部と政治4』1983,第一法規

外部リンク

『バドリオ
』 - コトバンク

先代
ベニート・ムッソリーニイタリア王国首相
1943年 - 1944年次代
イヴァノエ・ボノーミ

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