ビートルズ
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日本だけで1965年1月までの約1年間のシングル盤・LP盤を合わせた累計売上は300万枚[52] に達し、日本での発売元である東芝音楽工業からメンバーにゴールデン・レコードが授与された[52]映画『ヘルプ!4人はアイドル1965年10月26日、MBE勲章が授与される。

1965年2月[13]から映画『ヘルプ!4人はアイドル』の撮影を開始。前作のモノクロのドキュメンタリー・タッチな内容から、任意の事件が発生する筋書きが存在するカラー作品となった。7月に公開され、サウンドトラックアルバム『ヘルプ![注釈 42] は8月6日にリリースされた。その収録曲のひとつである「イエスタデイ」は、後にビートルズ・ナンバーの中でも際立って有名な曲のひとつとなる。

8月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで55,600人[注釈 43] の観客を集めた野外公演開催(詳細は#野球場でのコンサートを参照)。10月26日にはメンバーに対して、外貨獲得による国家への貢献を理由にMBE勲章が授与される[12]

12月にアルバム『ラバー・ソウル』を発売。レノンは「このアルバムはビートルズが音楽的に同時代に影響を与えた最初のアルバム」と述べており[47]、「ドライヴ・マイ・カー」や「ひとりぼっちのあいつ」、シタールを演奏に加えた「ノルウェーの森」など、それまでのビートルズにはなかった作風が登場した。シタールの導入はラヴィ・シャンカルの影響を受けたハリスンの提案である[47][53]。同月、最後のイギリスツアーを行う。このツアー中に、メンバーが公演活動を続けるかどうか話し合っている[54]

1966年3月、レノンがイギリスの取材記事で「ビートルズはキリストよりも有名だ」と発言する。それから5か月後の8月、その発言の一部がアメリカの雑誌に引用され、物議を醸す(詳細は#レノンのキリスト発言を参照)。4月にアルバム『リボルバー』の録音を開始[55]。この作品からノーマン・スミスに代わってアシスタント・エンジニアだったジェフ・エメリックがチーフ・エンジニアに就任。

6月24日から7月5日まで西ドイツ日本フィリピンを回る最後の世界ツアーを行う。8月には最後の[注釈 44]アメリカ公演を行ない、29日のキャンドルスティック・パークで公演活動を終了した(詳細は#レコーディング・アーティストへの移行を参照)。同月5日、イギリスで『リボルバー』を発売。
野球場での公演

1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行日程であり、加えて録音や映画撮影、テレビ出演をこなしたメンバーの疲労は非常に深刻なものとなった[56]。そのため、1965年の全米ツアーは大幅に短縮され、2週間で10都市を回る日程となった。その代わりに公演会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使用した。1965年8月15日にニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて開催された公演の観客人数は55,600人に上っている。これは当時としては世界最大の観客動員数であり、またビートルズが開催した全ての公演の中でも最大数である[57]

1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された[注釈 45]。ただし、こういった大規模な野外公演に対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いており[57]、これがビートルズのツアー中止の一因となった(詳細は#レコーディング・アーティストへの移行を参照)。これ以後、野球場・サッカー場といったスポーツ競技場での大規模公演は一般化していき[注釈 46]、日本でも1968年8月12日にザ・タイガースによる後楽園球場公演以降、スポーツ競技場での公演が開催されるようになる。また、スポーツ競技場以外でも1969年のウッド・ストックや1970年のワイト島フェスティバル1970(英語版)といった大規模野外コンサートが行われるようになる。
エルヴィス・プレスリーとの面会

1965年8月27日にビートルズはカリフォルニア州ロサンゼルスエルヴィス・プレスリー宅に招かれた[58]。プレスリーのマネージャーであるトム・パーカー大佐がエプスタインと「極秘の打ち合わせを行なう」という名目だったが、プレスリー宅周辺には人々が集まった。

面会に際してメンバーは冷静さを装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。部屋でプレスリーは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}テレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた[要校閲]。「本物のエルヴィスだ」と感激したメンバーは呆然としてしまい、プレスリーが「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけたことから、即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。スターはドラムキットが無かったので演奏せずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。

この会見はビートルズのメンバー達や関係者達の証言の食い違いがあり、様々な諸説がある。ビートルズの友人でもある記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンがプレスリー宅のラウンジに入った時、テーブルランプの「リンドン・B・ジョンソン大統領と共に」というメッセージが刻まれたワゴンの模型を見つけた。その瞬間レノンは大統領を侮辱する態度をとり、プレスリーは困って苦笑いしていたという。(1965年にジョンソンがベトナム戦争を進めたため、レノンはジョンソンを嫌っていたからとハッチンスは語っている)プレスリーの妻だったプリシラは「ビートルズが入ってきたとき、エルヴィスはソファでリラックスしながらテレビを見ていました。両者とも最初は多少の沈黙とぎこちない会話の後、エルヴィスがベースを取り出してチャーリー・リッチの曲を弾き始めました。突然、ビートルズとエルヴィスのジャムセッションが始まりました」と語っている。

ビートルズの広報担当者でもあるトニー・バロウによると「プレスリーとビートルズは奇妙な沈黙が多く、いくつかぎこちない会話をした。最初に口を開いたのはジョンで、最近はなぜ映画でソフトなバラードばかりを歌ってるの?ロックンロールはどうしたのと質問していた。会話は上手くいかなかったが、プレスリーが楽器を用意し、素晴らしいセッションが始まった。彼等が演奏した全ての曲は覚えてないが、その内の1つはI Feel Fineだったことは覚えている。リンゴは木製家具を叩いてバックビートを鳴らしていた。それは素晴らしいセッションだった」と語っている。

プレスリーはビートルズの曲も歌い「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言したのでその場が凍りついた。これはレノン流の過激なジョークだったといわれている。この会見は成功したとは言えないものだったが、ビートルズは忘れられない夜だったと語っている。プレスリーのロードマネジャーであるジョー・エスポジートによれば、「プレスリーは面会の後もビートルズに敬意を払っていた」と語っている。レノンはプレスリーの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分はいない」と伝えるよう頼んだという。しかし後の1970年に、反米精神に満ちたヒッピーの薬物文化などの問題で混沌としているアメリカを危惧したプレスリーは、ニクソン大統領に協力を申し出た。ヒッピーに支持されていた、LSDなどを扱うビートルズの音楽や反アメリカ的な発言、共産主義的な思想などが若者に悪影響を及ぼしているとプレスリーは懸念していたのである。ビートルズの中でも特にレノンは反米的で要注意人物と考えていたという。プレスリーはビートルズを一時期警戒していた。しかしプレスリーは麻薬取締局のバッジを取得した後、ニクソンとの関係を断ちビートルズの楽曲を公演で歌っている。

この面会は当時の音楽界において最も注目すべきものだったが、会話は録音されていない。これはパーカー大佐の要請ではなく、エプスタインがプレスリー側へ気を利かせ会話録音を一切許可しなかったからである。
レノンのキリスト発言

1966年3月、コラムニストのモーリン・グリーブによるレノンの取材記事が「ロンドン・イブニング・スタンダード(英語版)」誌に掲載された。この記事の一部がアメリカ公演間際に、アメリカのティーン雑誌「デイトブック」に転載された。元の記事は紙面にして2頁という量[59]だったが、デイトブックはその中の1行である「ビートルズはキリストより有名だ」という発言を抽出して掲載した。

これが「イエスを冒?した」とアメリカで解釈され、ビートルズのレコード、プロマイドやポスターといったグッズなどが組織的に破棄、焼却されるという事態に発展する。特にキリスト教信仰が盛んなアメリカ南部で大きな騒動となり、殺害予告もなされるに至った[59]


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