ビートルズ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

むしろ厳重な警備もあって(アリーナにはチケットが割り振られず警備員のみが配置され、観客は立ち上がったり近づいたりすることが許されていなかった[68])会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは初日の公演で自分達の音が合っていないことに気づいた。ハリスンは終演後、「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」、「最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。これを受けてビートルズとツアーメンバーは、次の出番までに急いで改善の努力をした[68]。その結果、演奏は回を重ねるほどに改善していった。

3日間の公演の総観客数は5万人とも2万5千人ともいわれる[75]。3日の午前10時44分に、大勢の報道陣に囲まれながら日本航空のダグラスDC-8-53型(JA8006、鎌倉号)で、経由地の香港に向けて離日する。

警視庁では警備状況を16ミリフィルムのモノクロ映像(音声なし)として記録しており、これには演奏が改善された最終日の公演映像などが含まれていることから、2014年にNPO法人の情報公開市民センターが情報公開請求を出したが、「警備手法が明らかになる」として非開示となっていた[76]。2015年に再度請求した結果、ビートルズのメンバー以外の顔をぼかした状態で開示が決まり、2022年に加工された映像が公開された[76]。映像は全国市民オンブズマン連絡会議YouTubeで公開している[77]
フィリピン事件

1966年7月3日に羽田空港を発つと香港に行き、2時間30分程の滞在中に取材を受けた。その後キャセイパシフィックコンベア880型機に乗り換えてマニラに到着した。7月4日にアラネタ・コロシアム[66]にて公演を2回行ない、計10万人を動員。7月5日に離比した[注釈 48]

4日のコンサートの前にイメルダ・マルコスによる歓迎会が大統領官邸でとり行われることになったが、公演の前の時間が滅多に無い自由時間だったため、[78]ビートルズ側はこの出席を辞退した(ニール・アスピノールによれば[78]エプスタインが事前に欠席する意向を伝達していた)。それにもかかわらずフィリピンのテレビ局は官邸からの生中継で「もうすぐビートルズが到着する」と放送し、フィリピンのプロモーターは出席を要請し続けた[78]が、結局エプスタインは要請を断り続けた。メンバーは歓迎会の存在すら知らないまま休養した後、会場に向かった。この無断欠席は次第に大騒動となり、当日深夜にエプスタインがテレビに出演して謝罪文を代読した。

5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。出国しようとしているビートルズは空港などで多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがメンバーに敵意を向けるという事態に発展する[79]。そして空港に集まった市民に小突かれたり足蹴にされつつ乗り込んだ飛行機に離陸許可がなかなか出ない中、税務長官により法外な所得税が課されてしまった。結局興行収入をすべて当局に支払い[79]、フィリピンを離れたビートルズはインドで休養したのち帰国した。

後にメンバーおよび関係者は事件について[80]「スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。この一件によってエプスタインが体調を崩した。あんな狂った場所には二度と行きたくない」と述べている。後の1986年にマルコス夫妻が失脚した際も、そのことに肯定的な発言がある。アスピノールは「この事件はビートルズからツアーへの意欲を奪った一因」と述べている[81]
レコーディング・アーティストへの移行

これまでのビートルズの世界各国を巡る活動は、1966年8月29日にキャンドルスティック・パークにて開催されたサンフランシスコ公演を以て終了した[82][注釈 49]

1965年の段階でスター[83]やハリスン[84]は過密な予定に不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。加えてメンバーは公演自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず[85]PAも満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。1965年8月15日のニューヨーク公演を含むアメリカツアーでは、スタジアム公演の為に特注の100ワットのアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている[86][注釈 50]。こういった機材面の問題に加え、演奏を聴かない観客にもメンバーは不満を感じ始めていた[88]。特にレノンはこの状況について、ビートルズの公演は音楽とは関係無いと発言している[89]

さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館を用いた公演への反発や、ファンの殺到による危険防止から大掛かりな身辺警護が実施され[68]、日中にほとんどホテルから外出できなかった。さらにその後のフィリピンでの出来事8月のアメリカでの騒動では、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り[90]、公演活動の終了に至った。エプスタインはフィリピン公演の後に立ち寄ったインドでハリスンに「来年もツアーをやるの?」と質問され、「1967年はツアーを行わない」と回答している[89]。さらに1967年8月にエプスタインが急死してマネージメントの構造自体が変質した(詳細はアップル・コアを参照)ことも、公演活動の再開を遠ざけた。

こうした反面、ビートルズはスタジオでの創作活動に意欲を振り向け始め、公演では再現困難な作品も作り始めていた。すでに1965年の「ひとりぼっちのあいつ」や1966年の「ペイパーバック・ライター」など、ボーカル・ハーモニーのライブ再現が難しい[91] 曲が発表されていたが、公演活動の終了後、初めて発売した1967年のオリジナル・アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は制作に半年[92]を費やし[注釈 51]、舞台上での再現を想定していないスタジオワークの技術が多く使用された[94]
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからホワイト・アルバムまで

1966年9月、レノンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』の撮影のためスペインに向かい、この撮影の休憩時間を使って「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を書いた[95]。ほぼ同時期にハリスンはインド音楽の研究のためインドに行き、ラヴィ・シャンカルに対面している[18]。11月、ジョン・ダンバー[注釈 52] の招待[96]でレノンはインディカ・ギャラリーに赴き、オノ・ヨーコに出会う。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:448 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef