またファンが殺到することによる混乱を避けるためにビートルズ側の行動も著しく制限され、分刻みの予定管理および日中のホテルからの外出禁止などの措置がとられていた。マッカートニーは行動制限をかいくぐって7月1日の朝に皇居に出かけたが警察に連れ戻され、またレノンは昼間に表参道と青山の骨董品店を訪れているが、群衆に発見されたため会計を終えると引き返した。行動制限の代わりにホテルでは着物屋や土産屋の訪問販売を受け、スーツを採寸している。レノンが購入した福助人形とソニーのテレビは後の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の表ジャケットに登場する。またこの時採寸したスーツはチェックアウト直前に届けられ、2ヶ月後のアメリカツアーにおける衣装として使用されている。
また、ホテル滞在中に後に「Images of a Woman」と呼ばれることになる絵画を制作した[73]。この絵画は2024年2月に開催されたクリスティーズのオークションに出品され、約174万ドル(日本円で約2億5500万円)で落札された[74]。
マイク・スタンドの不備はあったが、公演中の事故や暴動などの問題は生じなかった。むしろ厳重な警備もあって(アリーナにはチケットが割り振られず警備員のみが配置され、観客は立ち上がったり近づいたりすることが許されていなかった[68])会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは初日の公演で自分達の音が合っていないことに気づいた。ハリスンは終演後、「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」、「最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。これを受けてビートルズとツアーメンバーは、次の出番までに急いで改善の努力をした[68]。その結果、演奏は回を重ねるほどに改善していった。
3日間の公演の総観客数は5万人とも2万5千人ともいわれる[75]。3日の午前10時44分に、大勢の報道陣に囲まれながら日本航空のダグラスDC-8-53型(JA8006、鎌倉号)で、経由地の香港に向けて離日する。
警視庁では警備状況を16ミリフィルムのモノクロ映像(音声なし)として記録しており、これには演奏が改善された最終日の公演映像などが含まれていることから、2014年にNPO法人の情報公開市民センターが情報公開請求を出したが、「警備手法が明らかになる」として非開示となっていた[76]。2015年に再度請求した結果、ビートルズのメンバー以外の顔をぼかした状態で開示が決まり、2022年に加工された映像が公開された[76]。映像は全国市民オンブズマン連絡会議がYouTubeで公開している[77]。 1966年7月3日に羽田空港を発つと香港に行き、2時間30分程の滞在中に取材を受けた。その後キャセイパシフィックのコンベア880型機に乗り換えてマニラに到着した。7月4日にアラネタ・コロシアム[66]にて公演を2回行ない、計10万人を動員。7月5日に離比した[注釈 48]。 4日のコンサートの前にイメルダ・マルコスによる歓迎会が大統領官邸でとり行われることになったが、公演の前の時間が滅多に無い自由時間だったため、[78]ビートルズ側はこの出席を辞退した(ニール・アスピノールによれば[78]エプスタインが事前に欠席する意向を伝達していた)。それにもかかわらずフィリピンのテレビ局は官邸からの生中継で「もうすぐビートルズが到着する」と放送し、フィリピンのプロモーターは出席を要請し続けた[78]が、結局エプスタインは要請を断り続けた。メンバーは歓迎会の存在すら知らないまま休養した後、会場に向かった。この無断欠席は次第に大騒動となり、当日深夜にエプスタインがテレビに出演して謝罪文を代読した。 5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。出国しようとしているビートルズは空港などで多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがメンバーに敵意を向けるという事態に発展する[79]。そして空港に集まった市民に小突かれたり足蹴にされつつ乗り込んだ飛行機に離陸許可がなかなか出ない中、税務長官により法外な所得税が課されてしまった。結局興行収入をすべて当局に支払い[79]、フィリピンを離れたビートルズはインドで休養したのち帰国した。 後にメンバーおよび関係者は事件について[80]「スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。この一件によってエプスタインが体調を崩した。あんな狂った場所には二度と行きたくない」と述べている。後の1986年にマルコス夫妻が失脚した際も、そのことに肯定的な発言がある。アスピノールは「この事件はビートルズからツアーへの意欲を奪った一因」と述べている[81]。 これまでのビートルズの世界各国を巡る活動は、1966年8月29日にキャンドルスティック・パークにて開催されたサンフランシスコ公演を以て終了した[82][注釈 49]。 1965年の段階でスター[83]やハリスン[84]は過密な予定に不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。加えてメンバーは公演自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず[85]、PAも満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。1965年8月15日のニューヨーク公演を含むアメリカツアーでは、スタジアム公演の為に特注の100ワットのアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている[86][注釈 50]。こういった機材面の問題に加え、演奏を聴かない観客にもメンバーは不満を感じ始めていた[88]。特にレノンはこの状況について、ビートルズの公演は音楽とは関係無いと発言している[89]。 さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館を用いた公演への反発や、ファンの殺到による危険防止から大掛かりな身辺警護が実施され[68]、日中にほとんどホテルから外出できなかった。さらにその後のフィリピンでの出来事や8月のアメリカでの騒動では、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り[90]、公演活動の終了に至った。
フィリピン事件
レコーディング・アーティストへの移行