ビートルズ
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7月6日、イギリスでリチャード・レスター監督[注釈 39] による映画『ハード・デイズ・ナイト[注釈 40] が公開。10日に同名映画のサウンドトラックアルバムを発売し、『ウィズ・ザ・ビートルズ』を抜いて12週間1位を保持していたローリング・ストーンズファーストアルバムを押しのけて7月25日に第1位になり、そこから21週間連続1位を維持した。

この後、1966年の末まで、イギリスのアルバムチャートはビートルズとローリング・ストーンズが1位争いを繰り広げ、それ以外ではボブ・ディランと『サウンド・オブ・ミュージック』のサウンドトラックの2者のみがチャート争いに参加するという構図になった。またアメリカのビルボードにおいても、アメリカ編集盤『ミート・ザ・ビートルズ』(11週連続)、『ザ・ビートルズ・セカンド・アルバム』(5週連続)、『ハード・デイズ・ナイト[注釈 41]』(14週連続)の3作が1位を獲得している。「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上を売り上げ、歴代トップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル『キャント・バイ・ミー・ラヴ』が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。

8月からは第2回アメリカツアーを行い、34日間、24都市で32公演[47] を開催する。なお同年7月に施行された公民権法制定により人種差別が許されなくなったはずのフロリダ州ジャクソンヴィルでは、会場のゲイター・ボウルがその後も黒人と白人の人種隔離政策を取っていた。これを記者会見でマッカートニーがこれを「馬鹿げている」、スターも「全ての人々のために演奏している」と明確に非難し、その上で人種隔離政策を取る会場への出演を拒否し、称賛を受けた。これを受けゲイター・ボウルは公演前に人種差別策を廃止している。

9月に帰国し、アルバム『ビートルズ・フォー・セール』を録音。10月からはイギリスの27都市で公演を行った。12月4日、イギリスで『ビートルズ・フォー・セール』を発売。日本では1964年2月にシングル『抱きしめたい』でデビュー。日本だけで1965年1月までの約1年間のシングル盤・LP盤を合わせた累計売上は300万枚[52] に達し、日本での発売元である東芝音楽工業からメンバーにゴールデン・レコードが授与された[52]映画『ヘルプ!4人はアイドル1965年10月26日、MBE勲章が授与される。

1965年2月[13]から映画『ヘルプ!4人はアイドル』の撮影を開始。前作のモノクロのドキュメンタリー・タッチな内容から、任意の事件が発生する筋書きが存在するカラー作品となった。7月に公開され、サウンドトラックアルバム『ヘルプ![注釈 42] は8月6日にリリースされた。その収録曲のひとつである「イエスタデイ」は、後にビートルズ・ナンバーの中でも際立って有名な曲のひとつとなる。

8月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで55,600人[注釈 43] の観客を集めた野外公演開催(詳細は#野球場でのコンサートを参照)。10月26日にはメンバーに対して、外貨獲得による国家への貢献を理由にMBE勲章が授与される[12]

12月にアルバム『ラバー・ソウル』を発売。レノンは「このアルバムはビートルズが音楽的に同時代に影響を与えた最初のアルバム」と述べており[47]、「ドライヴ・マイ・カー」や「ひとりぼっちのあいつ」、シタールを演奏に加えた「ノルウェーの森」など、それまでのビートルズにはなかった作風が登場した。シタールの導入はラヴィ・シャンカルの影響を受けたハリスンの提案である[47][53]。同月、最後のイギリスツアーを行う。このツアー中に、メンバーが公演活動を続けるかどうか話し合っている[54]

1966年3月、レノンがイギリスの取材記事で「ビートルズはキリストよりも有名だ」と発言する。それから5か月後の8月、その発言の一部がアメリカの雑誌に引用され、物議を醸す(詳細は#レノンのキリスト発言を参照)。4月にアルバム『リボルバー』の録音を開始[55]。この作品からノーマン・スミスに代わってアシスタント・エンジニアだったジェフ・エメリックがチーフ・エンジニアに就任。

6月24日から7月5日まで西ドイツ日本フィリピンを回る最後の世界ツアーを行う。8月には最後の[注釈 44]アメリカ公演を行ない、29日のキャンドルスティック・パークで公演活動を終了した(詳細は#レコーディング・アーティストへの移行を参照)。同月5日、イギリスで『リボルバー』を発売。
野球場での公演

1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行日程であり、加えて録音や映画撮影、テレビ出演をこなしたメンバーの疲労は非常に深刻なものとなった[56]。そのため、1965年の全米ツアーは大幅に短縮され、2週間で10都市を回る日程となった。その代わりに公演会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使用した。1965年8月15日にニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて開催された公演の観客人数は55,600人に上っている。これは当時としては世界最大の観客動員数であり、またビートルズが開催した全ての公演の中でも最大数である[57]

1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された[注釈 45]。ただし、こういった大規模な野外公演に対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いており[57]、これがビートルズのツアー中止の一因となった(詳細は#レコーディング・アーティストへの移行を参照)。これ以後、野球場・サッカー場といったスポーツ競技場での大規模公演は一般化していき[注釈 46]、日本でも1968年8月12日にザ・タイガースによる後楽園球場公演以降、スポーツ競技場での公演が開催されるようになる。また、スポーツ競技場以外でも1969年のウッド・ストックや1970年のワイト島フェスティバル1970(英語版)といった大規模野外コンサートが行われるようになる。
エルヴィス・プレスリーとの面会

1965年8月27日にビートルズはカリフォルニア州ロサンゼルスエルヴィス・プレスリー宅に招かれた[58]。プレスリーのマネージャーであるトム・パーカー大佐がエプスタインと「極秘の打ち合わせを行なう」という名目だったが、プレスリー宅周辺には人々が集まった。

面会に際してメンバーは冷静さを装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。


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