1か月後「カイザー・ケラー」に移動。「デリー&ザ・シニアーズ」や、リンゴ・スターがドラムスを務める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」と交代で出演することになり、スターと知己が生まれる。またこの頃、ベストが出番を休むことが数回あったため、スターが代役としてビートルズに参加する機会があった。さらに、この頃アストリッド・キルヒャー[注釈 30]が友人とともに客として店に来るようになり、程なくサトクリフと恋仲となる。
写真家を目指していたキルヒャーによって、撮影されたビートルズの写真は後に『ザ・ビートルズ・アンソロジー』などの文献に収録された。同時期にキルヒャーの元恋人で、後にイラストレーター、ミュージシャンとしてメンバーと関わるクラウス・フォアマンとも親交を結ぶ。ハンブルクで演奏を始めて3か月後、「カイザーケラー」より格上の「ザ・トップテン・クラブ(英語版)」からの出演依頼を受けるが、満17歳で就労年齢制限に違反していることが発覚したハリスンと、宿舎として用いていた映画館の放火に関与したマッカートニー及びベストが強制送還され、レノンも帰国した。一方でサトクリフはキルヒャーの援助を受けてしばらくハンブルクに滞在した。再建されたキャヴァーン・クラブ。
1961年1月、ハンブルクでの失敗から活動を停止していたビートルズは、ウィリアムスからクラブDJのボブ・ウーラーを紹介され、選考の上でリヴァプールのキャヴァーン・クラブに定期出演を開始した。また会場までメンバーと楽器を搬送するロード・マネージャーとしてニール・アスピノール[注釈 31] が、続いてマル・エヴァンズ [注釈 32] が雇われた。
同年4月、2度目のハンブルク巡業を開始し、以前から出演依頼を受けていたザ・トップテン・クラブに出演する。このハンブルク巡業では初めてレコード会社による録音も実現した。また、再会したキルヒャーと一緒にプールに行った際、メンバーの髪が前に下りている状態を気に入ったキルヒャーの提案によって、ベスト以外の4人が後に「ビートルカット」と呼ばれるようになる[36]前髪を下ろした髪型を採用した。 2度目のハンブルク巡業が終わった時点でサトクリフが脱退し、キルヒャーと婚約してハンブルクで生活を始めた。従ってマッカートニーがギターからベースに担当を替え、4人編成のビートルズが誕生する。 帰国後の8月、レノンの級友だったビル・ハリー
4人のビートルズ誕生
12月10日、リヴァプールでレコード店「NEMS」を営んでいたブライアン・エプスタインがマネージャーに就任する。エプスタインの営業活動により、1962年1月1日にデッカ・レコードの選考を受けるが、不合格となる。その後もエプスタインが各レコード会社に営業を続ける。4月から3度目のハンブルク巡業を開始し、11日からスター・クラブに出演。その前日の[38]4月10日、サトクリフが脳内出血により死去する。6月、EMI傘下のパーロフォン所属プロデューサーのジョージ・マーティンによる選考が打診される。6月6日に行われた審査を受けてデビューが決まった後の8月15日、ベストが解雇される[注釈 33]。
直後にスターが加入し、9月からEMIで録音作業が行われる。この時はスターの他に、マーティンが招聘したドラマーのアンディ・ホワイトが参加している。また、エンジニアとして参加したノーマン・スミスは、この後『ラバー・ソウル』までチーフ・エンジニアを務めることになる。 ザ・トップテン・クラブでは、ビートルズはトニー・シェリダンのバック演奏も担当した。1961年6月22、23日、1962年5月24日、この縁でシェリダンのバックバンドとして録音に参加(ビートルズのポリドール・セッションを参照)。レコード会社は「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」と、バンド名を変えて発売[注釈 34]。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでレノンのボーカルの「いい娘じゃないか」、インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」も録音された[注釈 35]。 1962年10月5日にイギリスにてシングル『ラヴ・ミー・ドゥ』でデビュー。ミュージック・ウィーク誌
ハンブルクでの録音
デビュー以降の経歴
デビュー1963年頃1963年10月30日,スウェーデンのテレビ番組『DROP IN』で
この曲のヒットにより英国で一躍人気グループになり、4月11日に発売された3枚目のシングル『フロム・ミー・トゥ・ユー』ではミュージック・ウィーク誌で1963年5月2日付けから6月19日付けまで7週連続1位となる[41]。同作以降は『シー・ラヴズ・ユー』(8月23日発売/1位6週)、『抱きしめたい』(11月29日発売/1位5週)などのシングルが連続して1位を獲得した。
1963年4月26日に英国でのファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を発売し、5月11日付けでチャート第1位となり、その後、連続30週間、第1位が続いた。連続第1位が続く中、1963年11月22日にアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』を発売し、12月7日に『プリーズ・プリーズ・ミー』に代わり第1位を獲得。1964年5月まで21週間連続1位になる。ビートルズはこの2枚のアルバムで51週間、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの第1位を占有していた。10月13日、当時の人気テレビ番組「サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム(英語版)」に出演。およそ1500万人[40] がビートルズの演奏を視聴した。メンバーの発言[42]によれば、これによってビートルズはイギリスでの人気を決定的なものとし、さらに11月4日にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで開催されたロイヤル・コマンド・パフォーマンス(王室御前コンサート)に出演している[注釈 37]。同じ頃、ビートルマニアと称されるファンの一部の行動が社会問題化し始める(詳細は#批判と公的な抑圧を参照)。
世界進出1964年2月7日、アメリカに上陸1964年2月9日、エド・サリヴァン・ショーに出演
しかしこの頃、アメリカではまだヒットを出せていなかった。新曲が出来るたびに、ジョージ・マーティンはアメリカ合衆国でEMIと提携関係にあったキャピトル・レコードにレコードの販売を要請した[43]が拒否される。その為ヴィージェイ・レコードやスワン・レコード(英語版)などEMIが英国での配給権を取得している小さなレーベルと契約してレコードを販売したが、マッカートニーの発言[44] などによれば、ヴィージェイの販路が弱く大規模な収益は得られなかった。
その後『ライフ』誌や『ニューズウィーク』誌がビートルズを報道し、ラジオのディスク・ジョッキーがビートルズの楽曲を放送し始めると、ビートルズはアメリカでも知名度を高め、キャピトルによるレコード発売が決定した[45]。