ビートルズ
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それ以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、名前の並びが逆の「マッカートニー=レノン」作品8曲、「ジョン・レノン・アンド・ポール・マッカートニー」が13曲[注釈 23]、ハリスンの作品22曲、スターの作品2曲、レノン=マッカートニーとスターの共作1曲、全員の共作2曲が含まれている。未発表曲集『ザ・ビートルズ・アンソロジー』には、レノンとハリスンの共作、マッカートニーとハリスンの共作の作品も収録されている。
デビュー直前までの経歴
クオリーメン結成からビートルズへの改名まで

1957年3月、レノンがスキッフル・バンド「クオリーメン」を結成する。同年7月6日、ウールトン(英語版)のセント・ピーターズ教会(英語版)が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンの演奏をマッカートニーが観た。マッカートニーは共通の友人であるアイヴァン・ボーン[注釈 24]に紹介されレノンに面会した。マッカートニーはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック(英語版)」、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」、それにリトル・リチャードのメドレーを歌った[30]。マッカートニーが歌詞を完璧に覚えていること[31] に加え、トランペットピアノも演奏出来ることにレノンは感心してクオリーメンに勧誘し、翌日にマッカートニーは参加を決める[32]

翌1958年2月6日、マッカートニーに紹介されたハリスンがクオリーメンと出会う。「ローンチー(英語版)」を完璧に弾きこなしたことと、2人よりも多くのコードを知っていたことでレノンに認められ、バンドに採用される[33]。1959年になると他のメンバーは次第に辞めていき、1月にはバンドのメンバーはレノン、マッカートニー、ハリスンの3人だけになる。

同年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」(The Johnny and The Moondogs)とする。1960年1月、レノンに誘われたサトクリフがバンドに加入しベーシストになる[注釈 25]。同年4月、レノンとサトクリフが新たなバンド名にビートルズを提案するが、興行主のブライアン・キャスが改名を要請する。交渉してバンド名を「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」(The Long John and Silver Beetles)に改名する[注釈 26]
ビートルズへの改名以後

1960年5月、ロンドンの音楽関係者であるラリー・バーンズが担当する新しいソロシンガー[注釈 27] のバックバンドを務めるオーディションに参加する。参加を約束していたドラマーが欠席したが、キャス&カサノヴァズのジョニー・ハッチンソンが代役でドラムスを担当して合格する。この後、シンガーに決定したジョニー・ジェントルのバック・バンドとしてスコットランド巡業に出る。この時、レノンは「ロング・ジョン」、マッカートニーは「ポール・ラモーン」、ハリスンは「カール・ハリスン」、サトクリフは「スチュアート・ド・スタール」とそれぞれが芸名を名乗っていた[34]。この巡業からトニー・ムーアというドラマーが参加し、終了後もしばらく在籍していたが、やがて脱退する[注釈 28]

8月、アラン・ウィリアムス[注釈 29] を通じて西ドイツのハンブルクでの仕事が入ったが、5人編成のバンドが求められたため、新たなドラマーが必要となる。この時、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムを演奏できたので、メンバーとして採用する。この編成で最初のハンブルク巡業に向かい、クラブ「インドラ」で毎日6?8時間の演奏を行う。当初はおとなしい演奏に終始したため評判が悪かったが、マネージャーの助言を得て改善を心がけ、長時間の出番を通じて演奏を上達させたことで、次第に人気を獲得していった[35]

1か月後「カイザー・ケラー」に移動。「デリー&ザ・シニアーズ」や、リンゴ・スターがドラムスを務める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」と交代で出演することになり、スターと知己が生まれる。またこの頃、ベストが出番を休むことが数回あったため、スターが代役としてビートルズに参加する機会があった。さらに、この頃アストリッド・キルヒャー[注釈 30]が友人とともに客として店に来るようになり、程なくサトクリフと恋仲となる。

写真家を目指していたキルヒャーによって、撮影されたビートルズの写真は後に『ザ・ビートルズ・アンソロジー』などの文献に収録された。同時期にキルヒャーの元恋人で、後にイラストレーター、ミュージシャンとしてメンバーと関わるクラウス・フォアマンとも親交を結ぶ。ハンブルクで演奏を始めて3か月後、「カイザーケラー」より格上の「ザ・トップテン・クラブ(英語版)」からの出演依頼を受けるが、満17歳で就労年齢制限に違反していることが発覚したハリスンと、宿舎として用いていた映画館の放火に関与したマッカートニー及びベストが強制送還され、レノンも帰国した。一方でサトクリフはキルヒャーの援助を受けてしばらくハンブルクに滞在した。再建されたキャヴァーン・クラブ。

1961年1月、ハンブルクでの失敗から活動を停止していたビートルズは、ウィリアムスからクラブDJのボブ・ウーラーを紹介され、選考の上でリヴァプールのキャヴァーン・クラブに定期出演を開始した。また会場までメンバーと楽器を搬送するロード・マネージャーとしてニール・アスピノール[注釈 31] が、続いてマル・エヴァンズ [注釈 32] が雇われた。

同年4月、2度目のハンブルク巡業を開始し、以前から出演依頼を受けていたザ・トップテン・クラブに出演する。このハンブルク巡業では初めてレコード会社による録音も実現した。また、再会したキルヒャーと一緒にプールに行った際、メンバーの髪が前に下りている状態を気に入ったキルヒャーの提案によって、ベスト以外の4人が後に「ビートルカット」と呼ばれるようになる[36]前髪を下ろした髪型を採用した。
4人のビートルズ誕生

2度目のハンブルク巡業が終わった時点でサトクリフが脱退し、キルヒャーと婚約してハンブルクで生活を始めた。従ってマッカートニーがギターからベースに担当を替え、4人編成のビートルズが誕生する。

帰国後の8月、レノンの級友だったビル・ハリー(英語版)が音楽新聞「マージー・ビート(英語版)」を発刊。レノンが寄稿した文章が掲載される。そこで、マッカートニーのソロアルバム「フレイミング・パイ」の名前の元となった文章も掲載された。

12月10日、リヴァプールでレコード店「NEMS」を営んでいたブライアン・エプスタインがマネージャーに就任する。エプスタインの営業活動により、1962年1月1日にデッカ・レコードの選考を受けるが、不合格となる。その後もエプスタインが各レコード会社に営業を続ける。4月から3度目のハンブルク巡業を開始し、11日からスター・クラブに出演。その前日の[38]4月10日、サトクリフが脳内出血により死去する。6月、EMI傘下のパーロフォン所属プロデューサーのジョージ・マーティンによる選考が打診される。6月6日に行われた審査を受けてデビューが決まった後の8月15日、ベストが解雇される[注釈 33]

直後にスターが加入し、9月からEMIで録音作業が行われる。この時はスターの他に、マーティンが招聘したドラマーのアンディ・ホワイトが参加している。また、エンジニアとして参加したノーマン・スミスは、この後『ラバー・ソウル』までチーフ・エンジニアを務めることになる。
ハンブルクでの録音

ザ・トップテン・クラブでは、ビートルズはトニー・シェリダンのバック演奏も担当した。1961年6月22、23日、1962年5月24日、この縁でシェリダンのバックバンドとして録音に参加(ビートルズのポリドール・セッションを参照)。レコード会社は「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」と、バンド名を変えて発売[注釈 34]。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでレノンのボーカルの「いい娘じゃないか」、インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」も録音された[注釈 35]
デビュー以降の経歴
デビュー1963年頃1963年10月30日,スウェーデンのテレビ番組『DROP IN』で

1962年10月5日にイギリスにてシングル『ラヴ・ミー・ドゥ』でデビュー。


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