ビートルズ
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1966年秋にはハリスンが自らインドに出向きシャンカルから直接指導を受けている[18][注釈 22]。また、「ゲッティング・ベター」や「アクロス・ザ・ユニバース」でのタンブーラ(英語版)、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でのツィターなどもハリスンが自ら担当している。「ヘルター・スケルター」ではレノンがサックスを担当している。モーグ・シンセサイザーはアルバム『アビイ・ロード』のセッション時にハリスンが導入[24]。当時は特注品のモジュラー・システムしか存在しなかったが、「ヒア・カムズ・ザ・サン」や「ビコーズ」でハリスンが演奏。マッカートニーも「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、レノンが「アイ・ウォント・ユー」で演奏している。

外部ミュージシャンの例では、セッション・ドラマーのアンディ・ホワイトが、デビュー曲となった「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングに参加している。ただし、これはプロデューサーのジョージ・マーティンの判断によるもの[25]である。メンバーの意向による参加ミュージシャンの例では、クラシック音楽の分野から「イエスタデイ」で弦楽四重奏、「エリナー・リグビー」で弦楽八重奏、「ペニー・レイン」ではピッコロ・トランペットのソロにデヴィッド・メイスンが招かれている。同じロックやポップスの分野では「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」でリードギターを担当したエリック・クラプトンや、「レボリューション」でエレクトリックピアノを弾いたニッキー・ホプキンスが挙げられる。プロデューサーのジョージ・マーティンは「イン・マイ・ライフ」、「グッド・デイ・サンシャイン」、「ラヴリー・リタ」などの間奏でピアノを、「ベイビー・イッツ・ユー」ではチェレスタ、「サン・キング」ではオルガンを弾いている。また、ローリング・ストーンズブライアン・ジョーンズは「ユー・ノウ・マイ・ネーム」のレコーディングにサックスで参加。アルバム『レット・イット・ビー』のセッションにはビリー・プレストンエレクトリックピアノハモンドオルガンで参加している。ただし、外部から参加したミュージシャンはプレストンを除きレコードのクレジットには記載されていない。
利き手

メンバー4人のうちマッカートニーとスターは左利きである。マッカートニーは左利きだと述べている[26]。スターは文字を書く時以外は左利きだと述べている[27][28]。マッカートニーは、ベースやギターの左利き用の物の使用や(ただし、ドラムのみは右手で叩いている)、文字を左手で書いている写真・映像がある。
作詞作曲

自作曲はすべてメンバーが作詞作曲しており、最も多いクレジットはレノンとマッカートニーの共作名義である「レノン=マッカートニー」で、ビートルズナンバー213曲の内、144曲が「レノン=マッカートニー」名義で発表されている。それ以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、名前の並びが逆の「マッカートニー=レノン」作品8曲、「ジョン・レノン・アンド・ポール・マッカートニー」が13曲[注釈 23]、ハリスンの作品22曲、スターの作品2曲、レノン=マッカートニーとスターの共作1曲、全員の共作2曲が含まれている。未発表曲集『ザ・ビートルズ・アンソロジー』には、レノンとハリスンの共作、マッカートニーとハリスンの共作の作品も収録されている。
デビュー直前までの経歴
クオリーメン結成からビートルズへの改名まで

1957年3月、レノンがスキッフル・バンド「クオリーメン」を結成する。同年7月6日、ウールトン(英語版)のセント・ピーターズ教会(英語版)が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンの演奏をマッカートニーが観た。マッカートニーは共通の友人であるアイヴァン・ボーン[注釈 24]に紹介されレノンに面会した。マッカートニーはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック(英語版)」、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」、それにリトル・リチャードのメドレーを歌った[30]。マッカートニーが歌詞を完璧に覚えていること[31] に加え、トランペットピアノも演奏出来ることにレノンは感心してクオリーメンに勧誘し、翌日にマッカートニーは参加を決める[32]

翌1958年2月6日、マッカートニーに紹介されたハリスンがクオリーメンと出会う。「ローンチー(英語版)」を完璧に弾きこなしたことと、2人よりも多くのコードを知っていたことでレノンに認められ、バンドに採用される[33]。1959年になると他のメンバーは次第に辞めていき、1月にはバンドのメンバーはレノン、マッカートニー、ハリスンの3人だけになる。

同年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」(The Johnny and The Moondogs)とする。1960年1月、レノンに誘われたサトクリフがバンドに加入しベーシストになる[注釈 25]。同年4月、レノンとサトクリフが新たなバンド名にビートルズを提案するが、興行主のブライアン・キャスが改名を要請する。交渉してバンド名を「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」(The Long John and Silver Beetles)に改名する[注釈 26]
ビートルズへの改名以後

1960年5月、ロンドンの音楽関係者であるラリー・バーンズが担当する新しいソロシンガー[注釈 27] のバックバンドを務めるオーディションに参加する。参加を約束していたドラマーが欠席したが、キャス&カサノヴァズのジョニー・ハッチンソンが代役でドラムスを担当して合格する。この後、シンガーに決定したジョニー・ジェントルのバック・バンドとしてスコットランド巡業に出る。この時、レノンは「ロング・ジョン」、マッカートニーは「ポール・ラモーン」、ハリスンは「カール・ハリスン」、サトクリフは「スチュアート・ド・スタール」とそれぞれが芸名を名乗っていた[34]。この巡業からトニー・ムーアというドラマーが参加し、終了後もしばらく在籍していたが、やがて脱退する[注釈 28]


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