ビートルズ
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一方アップルは同企画に割いた多額の予算を回収するため、レノンやハリスンにより招聘されたフィル・スペクターを起用してアルバム『レット・イット・ビー』を完成させた[注釈 56]

映画の公開と合わせたため[113]、アルバムが発売された頃にはゲット・バック・セッションから1年以上経っていた。一方、『アビイ・ロード』は従来通りメンバーとジョージ・マーティンがアビー・ロード・スタジオで制作した作品であり、完成した翌月に発売された。この件について、スターは「世の中がどれ程よじれているかが分かる出来事だ。映画は僕やジョンやポールが編集した方がずっと面白いものが出来ただろう」と述べている[113]
解散

1970年4月10日、マッカートニーはイギリスのタブロイド紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表した。同年9月に「ハリスンがクラウス・フォアマンを加入させベース担当にする」との噂が立ったこともあり、マッカートニーは12月30日にロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。

翌年1971年3月12日、裁判所はマッカートニーの訴えを認め他の3人は上告を断念、この時点でビートルズの解散が法的に決定された(詳細はビートルズの解散問題に記載)。

1971年に発売されたレノンのアルバム『イマジン』収録の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」のように、レノンとマッカートニーはソロ作品を通じて互いを非難している。本曲の制作作業にはハリスンも参加し、歌詞の中では「イエスタデイ」、マッカートニーのソロ曲「アナザー・デイ」までをも持ち出し辛辣に皮肉っている。

しかし緊迫した関係は次第に改善し、1980年のインタビューでレノンは「3人には親愛を抱いてるよ。3人が自分の人生の一部を占めてることは事実さ」[114]「人生で二度大きな選択をした。一度目はポール・マッカートニーで二度目はオノ・ヨーコだ。一緒に仕事をしたいと思ったのはこの二人しかいない。二人ともとても良い選択だったと思うよ」と述べている[115][出典無効]。またハリスンも後にビートルズに対して肯定的な意見を述べているほか、マッカートニーも「問題が発生してるかどうかとは別に、4人の結束は常に固い[114]」と述べている。

なお、スターのみが解散以後も他の3人のとの良好な関係を保ち続けたため、レノン、マッカートニー、ハリスンは共にスターのソロアルバムに参加している。1973年のアルバム『リンゴ』ではアルバム上だけではあったが4人が同じ新作アルバムの中で演奏、レノンが提供した楽曲「アイム・ザ・グレーテスト」ではレノン、ハリスン、スターが演奏に参加している[注釈 57]
解散後
1970年代

1971年8月、ハリスン主はチャリティー公演「バングラデシュ・コンサート」がニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを主催し、スターと共に出演した。そのライブ・アルバムは翌年の1972年に発売され、第15回グラミー賞の年間最優秀アルバム賞を獲得している。

1973年、アップル・レコードより2枚組ベストアルバム『ザ・ビートルズ1962年?1966年』(赤盤)と『ザ・ビートルズ1967年?1970年』(青盤)が発売される。赤盤がビルボードのアルバムチャートで3位、青盤が1位を獲得した。日本のオリコンでは赤盤が7月9日付けで1位、1973年度の洋楽年間チャート1位となっている[注釈 58]

またこの年は世界各国でビートルズのリバイバルブームが起こり、『タイム』や『ニューズウィーク』などでビートルズが取り上げられた[117]。更に同年11月にリリースされたスターのアルバム『リンゴ』では、他の3人が楽曲提供を行ったほか、録音に参加したことでも話題となった。
1980年代

1980年12月8日(米国東部時間)レノンがニューヨークの自宅前で射殺された。 翌年1981年にハリスンが発表したレノンの追悼曲「過ぎ去りし日々」にはスターがドラムス、マッカートニー率いるバンド・ウイングスのメンバーがコーラスとして参加。本曲はレノンの死後初めて他メンバーが共演した作品となった[注釈 59]

1985年、『ギネス・ワールド・レコーズ』が「世界でのビートルズのレコード、テープの総売り上げが10億枚以上」と認定した[注釈 60]

1987年2月26日、ビートルズの作品がCD化され正式に発売された[注釈 61][118]。同年3月9日、「レノン=マッカートニー」がアメリカの「ソングライターの殿堂(英語版)」に選ばれた。本来はアメリカ国内の作詞家に対するもので、アメリカ人以外の作曲家としては初の殿堂入りとなった。
1990年代

1995年、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』のプロジェクトが開始、同年11月、プロジェクトの一環でコンピレーションアルバム『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』が発売された。本作にはレノンが遺した未発表のデモ音源を元に製作された新曲「フリー・アズ・ア・バード」や、デビュー前から1964年頃にかけての未発表曲やデモ音源、別テイクが収録され、ビルボードのアルバム・チャートで3週連続1位を獲得している[注釈 62]。翌1996年には『ザ・ビートルズ・アンソロジー2』、『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』が発売された

1999年にはアニメ映画『イエロー・サブマリン』のDVDがサウンドを5.1ch化され再発されたほか、映画で使用された楽曲に最新のリミックスなどを施した初のリミックスアルバム『イエロー・サブマリン ?ソングトラック?』が発売された。
2000年代

2000年10月、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の書籍版が出版。同年11月、米ビルボードと英ミュージック・ウィークで1位になった27曲を収録したベストアルバム『ザ・ビートルズ1』が発売。世界34か国で1位を獲得した。

2001年11月29日、ハリスンが脳腫瘍と肺癌のためカリフォルニア州ロサンゼルスで死去する。2003年11月、アルバム『レット・イット・ビー...ネイキッド』が発売。ゲット・バック・セッションで録音された音源に最新のリミックスとリマスタリングを施し、『レット・イット・ビー』でマッカートニーが不満を表明していた[119]フィル・スペクターによるオーケストラなどの追加部分が削除された。

2006年11月、人気ミュージカルシルク・ドゥ・ソレイユのサウンドトラックとして、リミックスアルバム『LOVE』が発売される。2007年1月、イギリスでビートルズのアルバム・ジャケット画を使用した切手が発売[120]

2009年9月9日、イギリス盤オリジナル・アルバム12作と米編集『マジカル・ミステリー・ツアー』、『パスト・マスターズ』のCDが新たにリマスタリングされたステレオ音源で世界同時発売。同日CD BOX『ザ・ビートルズ BOX』(これらステレオ音源をまとめたもの)に、CD BOX『ザ・ビートルズ MONO BOX』も発売された[121]。後者には『ザ・ビートルズ』までのオリジナルアルバムのモノラル音源と2枚組の『モノ・マスターズ[注釈 63] が収録されている。ステレオ・アルバム・ボックスをUSBメモリに収録した『ザ・ビートルズ USB BOX』も発売された。このボックスにはオーディオCDのスペックをしのぐFLAC 44.1Khz 24 bitで収録された音源の他、CDブックレット、ボーナスDVDをデータ化したものも収録されている[122][123]
2010年代

2010年、作品のiTunesでのデジタル配信が解禁される。『LOVE』も2011年2月に配信され、同時にアルバムで1位を獲得した。


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