ビートルズ
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11月、初の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)』が発売[注釈 54]
アップル・コア詳細は「アップル・コア」を参照

エプスタインが設立したアップル・パブリッシングという投資目的の会社が元になっている[105]。しかしエプスタインが死去し、その時点でのマネージメント契約や権利の所在がビートルズにも把握困難になったため、メンバー4人およびマル・エヴァンスとニール・アスピノールの計6人が話し合い[106]、その対応策としてアップルを拡大することにした。
レット・イット・ビーからアビイ・ロードまでアビー・ロード・スタジオの入口

1969年1月、トゥイッケナム・スタジオ(英語版)で、録音とドキュメンタリー映画の撮影を兼ねたゲット・バック・セッションが始まるが、メンバー間の不和が増大する。マッカートニーとハリスンが衝突し、ハリスンが一時離脱する[107]。復帰を承諾するものの、トゥイッケナムでの撮影続行に不満を示したハリスンに配慮し、サビル・ロウに新しく作られたスタジオで撮影を続行する。ハリスンの提案でビリー・プレストンをセッション・プレイヤーとして招聘して作業を再開したが、結局この時点ではアルバム発売には至らず、次回作と発売順が入れ替わる結果となる。1月30日、映画の最後で使用された屋上での生演奏(ルーフトップ・コンサート)を敢行する。

その後、アップル・コアの財政が危機に陥り、マネージャーの決定を巡ってメンバー間で対立が起こる。マッカートニーは恋人のリンダ・イーストマンの父リー・イーストマンを推したが、他の3人はアラン・クレインを推した[108]。3月12日にマッカートニーがリンダと結婚。同日、ハリスンの自宅を警察が大麻所持の容疑で捜索。同月20日、レノンはかねてから愛人関係にあったオノとジブラルタルで結婚式を挙げる。

4月、アビー・ロード・スタジオにてアルバム『アビイ・ロード』の制作を開始(発売は9月)。8月8日午前10時頃に『アビイ・ロード』のディスクジャケットの写真撮影が行われた。当日は暑かったためマッカートニーはスーツにサンダル履きという姿で現場に出向いており、実際にサンダルを履いて横断歩道を渡るカットも撮影された[109]。22日、レノンの新居にて全員が揃った最後の写真が撮影された。

9月、レノンとオノが結成したプラスティック・オノ・バンドカナダオンタリオ州トロントで公演を開催。ハリスンはメンバーに誘われた[110]が辞退し、エリック・クラプトンが参加した。レノンが帰国した後の9月末、アップルで今後の活動に関する会議が行われた小規模なギグから公演を再開するというマッカートニーの提案にレノンが「お前はアホか。俺は辞める」と述べた。しかしアラン・クレインはレノンの意向を公表しなかった[110]。1970年4月10日にマッカートニーがビートルズ脱退を表明し、ビートルズは事実上解散となった。

4月17日にマッカートニーはソロ・アルバム『マッカートニー』を発売。5月8日にフィル・スペクターのプロデュースでゲット・バック・セッションでの録音をまとめたアルバム『レット・イット・ビー』が発売される。
アルバム『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』サビル・ロウにあるアップル社のビル。このビルの屋上で、ゲット・バック・セッションの一部であるルーフ・トップ・コンサートを行った。

レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』は、収録順と発売順とが逆になっている。時系列は以下の通り。

1969年1月、ゲット・バック・セッション

1969年4月、『アビイ・ロード』録音開始。8月に終了。

1969年9月、『アビイ・ロード』発売。

1970年5月、『レット・イット・ビー』発売[注釈 55]

マッカートニーの提案[111]によるゲット・バック・セッションは、1969年1月2日から31日にかけて行われた。このセッションは新アルバムの制作作業に加え、スタジオでの練習をすべて撮影し、その模様をドキュメンタリーにして放送、そして新曲を披露する公演を行うという企画であった。撮影された映像は後に編集されて、映画『レット・イット・ビー』として公開されることになる。

しかし、メンバーはセッションで収録された音源を気に入らず[112]、制作されたテスト盤『ゲット・バック』の発売を見送った。その後『アビイ・ロード』の制作が開始されたため、この企画は放棄されてしまう。一方アップルは同企画に割いた多額の予算を回収するため、レノンやハリスンにより招聘されたフィル・スペクターを起用してアルバム『レット・イット・ビー』を完成させた[注釈 56]

映画の公開と合わせたため[113]、アルバムが発売された頃にはゲット・バック・セッションから1年以上経っていた。一方、『アビイ・ロード』は従来通りメンバーとジョージ・マーティンがアビー・ロード・スタジオで制作した作品であり、完成した翌月に発売された。この件について、スターは「世の中がどれ程よじれているかが分かる出来事だ。映画は僕やジョンやポールが編集した方がずっと面白いものが出来ただろう」と述べている[113]
解散

1970年4月10日、マッカートニーはイギリスのタブロイド紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表した。同年9月に「ハリスンがクラウス・フォアマンを加入させベース担当にする」との噂が立ったこともあり、マッカートニーは12月30日にロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。

翌年1971年3月12日、裁判所はマッカートニーの訴えを認め他の3人は上告を断念、この時点でビートルズの解散が法的に決定された(詳細はビートルズの解散問題に記載)。

1971年に発売されたレノンのアルバム『イマジン』収録の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」のように、レノンとマッカートニーはソロ作品を通じて互いを非難している。本曲の制作作業にはハリスンも参加し、歌詞の中では「イエスタデイ」、マッカートニーのソロ曲「アナザー・デイ」までをも持ち出し辛辣に皮肉っている。

しかし緊迫した関係は次第に改善し、1980年のインタビューでレノンは「3人には親愛を抱いてるよ。3人が自分の人生の一部を占めてることは事実さ」[114]「人生で二度大きな選択をした。一度目はポール・マッカートニーで二度目はオノ・ヨーコだ。一緒に仕事をしたいと思ったのはこの二人しかいない。二人ともとても良い選択だったと思うよ」と述べている[115][出典無効]。またハリスンも後にビートルズに対して肯定的な意見を述べているほか、マッカートニーも「問題が発生してるかどうかとは別に、4人の結束は常に固い[114]」と述べている。

なお、スターのみが解散以後も他の3人のとの良好な関係を保ち続けたため、レノン、マッカートニー、ハリスンは共にスターのソロアルバムに参加している。1973年のアルバム『リンゴ』ではアルバム上だけではあったが4人が同じ新作アルバムの中で演奏、レノンが提供した楽曲「アイム・ザ・グレーテスト」ではレノン、ハリスン、スターが演奏に参加している[注釈 57]
解散後
1970年代

1971年8月、ハリスン主はチャリティー公演「バングラデシュ・コンサート」がニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを主催し、スターと共に出演した。


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