ビートルズ
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11月、ジョン・ダンバー[注釈 52] の招待[96]でレノンはインディカ・ギャラリーに赴き、オノ・ヨーコに出会う。

同月、ツアー終了後初めてアビー・ロード・スタジオに集合し「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」「ペニー・レイン」などを録音。これらの曲は当初、次のアルバムに収録する予定だったが[97]、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため[40]、この内の2曲を先行してシングル発売することになった。

1967年2月、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」が両A面シングルとして発売。レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスでアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発売される。このアルバムは当時のポピュラー音楽界の枠を超えて多大な文化的影響を与えたと言われている。同月25日、3億人が視聴した[98]世界同時衛星中継番組『われらの世界』に出演し、「愛こそはすべて」を披露する。同曲は7月にシングル発売された。

8月にサンフランシスコに赴いたハリスンはヘイト・アシュベリー(英語版)でヒッピーらと交流を持つが、彼らの実態に対し幻滅するも、逆にシタールの習得の際に触れたインドの瞑想に強い関心を示した[99]。このハリスンの提案で、8月24日、妻の出産に立ち会ったスターを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで行われたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。続けてウェールズのバンガーでのセミナーに参加する。しかし27日にエプスタインが急死したため、4人はセミナーを辞去してロンドンに戻る。エプスタインの死によってビートルズのマネジメントの不備が明らかになり、アップル・コア設立が企図される[100]

9月[101]からテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の撮影が行われ、年末にBBCで放映される。同作のサウンドトラックは、11月にアメリカでコンピレーション形式のLP盤[注釈 53]、12月にイギリスでEP盤が発売される。

1968年1月、ハリスンがインドのボンベイで『不思議の壁』を録音。同名映画(英語版)のサウンドトラックで11月に発売された。その後メンバー全員でリシケーシュのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。その間にニール・アスピノールとデレク・テイラー(英語版)の主導でアップル・コアの設立準備を行う[102]。5月、ニューヨークでレノンとマッカートニーがアップル・コア設立の記者会見を行う。7月[103]、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』を公開。

8月、レノンと妻のシンシアの関係がオノ・ヨーコにより険悪になったことから、夫妻の息子であるジュリアン・レノンにマッカートニーが伝えようとしたメッセージが元になった[104]シングル『ヘイ・ジュード』が発売される。11月、初の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)』が発売[注釈 54]
アップル・コア詳細は「アップル・コア」を参照

エプスタインが設立したアップル・パブリッシングという投資目的の会社が元になっている[105]。しかしエプスタインが死去し、その時点でのマネージメント契約や権利の所在がビートルズにも把握困難になったため、メンバー4人およびマル・エヴァンスとニール・アスピノールの計6人が話し合い[106]、その対応策としてアップルを拡大することにした。
レット・イット・ビーからアビイ・ロードまでアビー・ロード・スタジオの入口

1969年1月、トゥイッケナム・スタジオ(英語版)で、録音とドキュメンタリー映画の撮影を兼ねたゲット・バック・セッションが始まるが、メンバー間の不和が増大する。マッカートニーとハリスンが衝突し、ハリスンが一時離脱する[107]。復帰を承諾するものの、トゥイッケナムでの撮影続行に不満を示したハリスンに配慮し、サビル・ロウに新しく作られたスタジオで撮影を続行する。ハリスンの提案でビリー・プレストンをセッション・プレイヤーとして招聘して作業を再開したが、結局この時点ではアルバム発売には至らず、次回作と発売順が入れ替わる結果となる。1月30日、映画の最後で使用された屋上での生演奏(ルーフトップ・コンサート)を敢行する。

その後、アップル・コアの財政が危機に陥り、マネージャーの決定を巡ってメンバー間で対立が起こる。マッカートニーは恋人のリンダ・イーストマンの父リー・イーストマンを推したが、他の3人はアラン・クレインを推した[108]。3月12日にマッカートニーがリンダと結婚。同日、ハリスンの自宅を警察が大麻所持の容疑で捜索。同月20日、レノンはかねてから愛人関係にあったオノとジブラルタルで結婚式を挙げる。

4月、アビー・ロード・スタジオにてアルバム『アビイ・ロード』の制作を開始(発売は9月)。8月8日午前10時頃に『アビイ・ロード』のディスクジャケットの写真撮影が行われた。当日は暑かったためマッカートニーはスーツにサンダル履きという姿で現場に出向いており、実際にサンダルを履いて横断歩道を渡るカットも撮影された[109]。22日、レノンの新居にて全員が揃った最後の写真が撮影された。

9月、レノンとオノが結成したプラスティック・オノ・バンドカナダオンタリオ州トロントで公演を開催。ハリスンはメンバーに誘われた[110]が辞退し、エリック・クラプトンが参加した。レノンが帰国した後の9月末、アップルで今後の活動に関する会議が行われた小規模なギグから公演を再開するというマッカートニーの提案にレノンが「お前はアホか。俺は辞める」と述べた。しかしアラン・クレインはレノンの意向を公表しなかった[110]。1970年4月10日にマッカートニーがビートルズ脱退を表明し、ビートルズは事実上解散となった。

4月17日にマッカートニーはソロ・アルバム『マッカートニー』を発売。5月8日にフィル・スペクターのプロデュースでゲット・バック・セッションでの録音をまとめたアルバム『レット・イット・ビー』が発売される。
アルバム『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』サビル・ロウにあるアップル社のビル。このビルの屋上で、ゲット・バック・セッションの一部であるルーフ・トップ・コンサートを行った。

レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』は、収録順と発売順とが逆になっている。時系列は以下の通り。

1969年1月、ゲット・バック・セッション


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