ビートルズ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

これまでのビートルズの世界各国を巡る活動は、1966年8月29日にキャンドルスティック・パークにて開催されたサンフランシスコ公演を以て終了した[82][注釈 49]

1965年の段階でスター[83]やハリスン[84]は過密な予定に不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。加えてメンバーは公演自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず[85]PAも満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。1965年8月15日のニューヨーク公演を含むアメリカツアーでは、スタジアム公演の為に特注の100ワットのアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている[86][注釈 50]。こういった機材面の問題に加え、演奏を聴かない観客にもメンバーは不満を感じ始めていた[88]。特にレノンはこの状況について、ビートルズの公演は音楽とは関係無いと発言している[89]

さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館を用いた公演への反発や、ファンの殺到による危険防止から大掛かりな身辺警護が実施され[68]、日中にほとんどホテルから外出できなかった。さらにその後のフィリピンでの出来事8月のアメリカでの騒動では、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り[90]、公演活動の終了に至った。エプスタインはフィリピン公演の後に立ち寄ったインドでハリスンに「来年もツアーをやるの?」と質問され、「1967年はツアーを行わない」と回答している[89]。さらに1967年8月にエプスタインが急死してマネージメントの構造自体が変質した(詳細はアップル・コアを参照)ことも、公演活動の再開を遠ざけた。

こうした反面、ビートルズはスタジオでの創作活動に意欲を振り向け始め、公演では再現困難な作品も作り始めていた。すでに1965年の「ひとりぼっちのあいつ」や1966年の「ペイパーバック・ライター」など、ボーカル・ハーモニーのライブ再現が難しい[91] 曲が発表されていたが、公演活動の終了後、初めて発売した1967年のオリジナル・アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は制作に半年[92]を費やし[注釈 51]、舞台上での再現を想定していないスタジオワークの技術が多く使用された[94]
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからホワイト・アルバムまで

1966年9月、レノンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』の撮影のためスペインに向かい、この撮影の休憩時間を使って「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を書いた[95]。ほぼ同時期にハリスンはインド音楽の研究のためインドに行き、ラヴィ・シャンカルに対面している[18]。11月、ジョン・ダンバー[注釈 52] の招待[96]でレノンはインディカ・ギャラリーに赴き、オノ・ヨーコに出会う。

同月、ツアー終了後初めてアビー・ロード・スタジオに集合し「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」「ペニー・レイン」などを録音。これらの曲は当初、次のアルバムに収録する予定だったが[97]、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため[40]、この内の2曲を先行してシングル発売することになった。

1967年2月、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」が両A面シングルとして発売。レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスでアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発売される。このアルバムは当時のポピュラー音楽界の枠を超えて多大な文化的影響を与えたと言われている。同月25日、3億人が視聴した[98]世界同時衛星中継番組『われらの世界』に出演し、「愛こそはすべて」を披露する。同曲は7月にシングル発売された。

8月にサンフランシスコに赴いたハリスンはヘイト・アシュベリー(英語版)でヒッピーらと交流を持つが、彼らの実態に対し幻滅するも、逆にシタールの習得の際に触れたインドの瞑想に強い関心を示した[99]。このハリスンの提案で、8月24日、妻の出産に立ち会ったスターを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで行われたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。続けてウェールズのバンガーでのセミナーに参加する。しかし27日にエプスタインが急死したため、4人はセミナーを辞去してロンドンに戻る。エプスタインの死によってビートルズのマネジメントの不備が明らかになり、アップル・コア設立が企図される[100]

9月[101]からテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の撮影が行われ、年末にBBCで放映される。同作のサウンドトラックは、11月にアメリカでコンピレーション形式のLP盤[注釈 53]、12月にイギリスでEP盤が発売される。

1968年1月、ハリスンがインドのボンベイで『不思議の壁』を録音。同名映画(英語版)のサウンドトラックで11月に発売された。その後メンバー全員でリシケーシュのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。その間にニール・アスピノールとデレク・テイラー(英語版)の主導でアップル・コアの設立準備を行う[102]。5月、ニューヨークでレノンとマッカートニーがアップル・コア設立の記者会見を行う。7月[103]、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』を公開。

8月、レノンと妻のシンシアの関係がオノ・ヨーコにより険悪になったことから、夫妻の息子であるジュリアン・レノンにマッカートニーが伝えようとしたメッセージが元になった[104]シングル『ヘイ・ジュード』が発売される。11月、初の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)』が発売[注釈 54]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:448 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef