公演は6月30日夜および7月1日昼夜・2日昼夜[66][67] に催行(計5回)し、会場はすべて東京都千代田区の日本武道館。7月1日の昼の部に収録された映像は、当日夜にテレビ番組で放送された。
司会を務めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ、ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。この前座バンドについては後にマッカートニーが「ハロー・ビートルズ、ウェルカム・ビートルズ、といった歌が聴こえて来た。音楽性は高くないがそういう歓待は嬉しかった」と発言している[68]。このとき歌われた楽曲「ウェルカム・ビートルズ」は1966年9月10日発売のジャッキー吉川とブルーコメッツのアルバム『青い瞳/青い渚 ブルー・コメッツ・オリジナル・ヒット集』に収録されている。
しかしそうした歓待の一方で、日本武道館で初めてポップ・ミュージックを演奏することを批判する者も存在した。右翼団体、大日本愛国党総裁の赤尾敏をはじめとした街宣車や「Beatles Go Home」と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ[69][70]、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者もいた[68]。このため警視庁は大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行った[68]。TBSテレビ「時事放談」においては細川隆元と小汀利得の両司会者が「乞食芸人ごときのバンドの公演をするのなら武道館ではなく、夢の島でやれ!!」と抗議したほどであり、このことを知ったビートルズファンの視聴者らがTBSのスタジオに集まり、この2名に対して逆抗議を起こす騒ぎとなった[71]。また、中・高校生のファンも多数いたが、明治・大正生まれの年長世代から見ればロック音楽はまだ不良の音楽という印象にしか過ぎないため、中にはこの公演を見学した生徒に対しては停・退学などの厳しい処分を科すという学校も私立校を中心にあった[72]。
またファンが殺到することによる混乱を避けるためにビートルズ側の行動も著しく制限され、分刻みの予定管理および日中のホテルからの外出禁止などの措置がとられていた。マッカートニーは行動制限をかいくぐって7月1日の朝に皇居に出かけたが警察に連れ戻され、またレノンは昼間に表参道と青山の骨董品店を訪れているが、群衆に発見されたため会計を終えると引き返した。行動制限の代わりにホテルでは着物屋や土産屋の訪問販売を受け、スーツを採寸している。レノンが購入した福助人形とソニーのテレビは後の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の表ジャケットに登場する。またこの時採寸したスーツはチェックアウト直前に届けられ、2ヶ月後のアメリカツアーにおける衣装として使用されている。
また、ホテル滞在中に後に「Images of a Woman」と呼ばれることになる絵画を制作した[73]。この絵画は2024年2月に開催されたクリスティーズのオークションに出品され、約174万ドル(日本円で約2億5500万円)で落札された[74]。
マイク・スタンドの不備はあったが、公演中の事故や暴動などの問題は生じなかった。むしろ厳重な警備もあって(アリーナにはチケットが割り振られず警備員のみが配置され、観客は立ち上がったり近づいたりすることが許されていなかった[68])会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは初日の公演で自分達の音が合っていないことに気づいた。ハリスンは終演後、「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」、「最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。これを受けてビートルズとツアーメンバーは、次の出番までに急いで改善の努力をした[68]。その結果、演奏は回を重ねるほどに改善していった。
3日間の公演の総観客数は5万人とも2万5千人ともいわれる[75]。3日の午前10時44分に、大勢の報道陣に囲まれながら日本航空のダグラスDC-8-53型(JA8006、鎌倉号)で、経由地の香港に向けて離日する。
警視庁では警備状況を16ミリフィルムのモノクロ映像(音声なし)として記録しており、これには演奏が改善された最終日の公演映像などが含まれていることから、2014年にNPO法人の情報公開市民センターが情報公開請求を出したが、「警備手法が明らかになる」として非開示となっていた[76]。2015年に再度請求した結果、ビートルズのメンバー以外の顔をぼかした状態で開示が決まり、2022年に加工された映像が公開された[76]。映像は全国市民オンブズマン連絡会議がYouTubeで公開している[77]。 1966年7月3日に羽田空港を発つと香港に行き、2時間30分程の滞在中に取材を受けた。その後キャセイパシフィックのコンベア880型機に乗り換えてマニラに到着した。7月4日にアラネタ・コロシアム[66]にて公演を2回行ない、計10万人を動員。7月5日に離比した[注釈 48]。 4日のコンサートの前にイメルダ・マルコスによる歓迎会が大統領官邸でとり行われることになったが、公演の前の時間が滅多に無い自由時間だったため、[78]ビートルズ側はこの出席を辞退した(ニール・アスピノールによれば[78]エプスタインが事前に欠席する意向を伝達していた)。それにもかかわらずフィリピンのテレビ局は官邸からの生中継で「もうすぐビートルズが到着する」と放送し、フィリピンのプロモーターは出席を要請し続けた[78]が、結局エプスタインは要請を断り続けた。メンバーは歓迎会の存在すら知らないまま休養した後、会場に向かった。この無断欠席は次第に大騒動となり、当日深夜にエプスタインがテレビに出演して謝罪文を代読した。 5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。出国しようとしているビートルズは空港などで多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがメンバーに敵意を向けるという事態に発展する[79]。そして空港に集まった市民に小突かれたり足蹴にされつつ乗り込んだ飛行機に離陸許可がなかなか出ない中、税務長官により法外な所得税が課されてしまった。結局興行収入をすべて当局に支払い[79]、フィリピンを離れたビートルズはインドで休養したのち帰国した。 後にメンバーおよび関係者は事件について[80]「スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。
フィリピン事件