ビートルズ
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1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された[注釈 45]。ただし、こういった大規模な野外公演に対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いており[57]、これがビートルズのツアー中止の一因となった(詳細は#レコーディング・アーティストへの移行を参照)。これ以後、野球場・サッカー場といったスポーツ競技場での大規模公演は一般化していき[注釈 46]、日本でも1968年8月12日にザ・タイガースによる後楽園球場公演以降、スポーツ競技場での公演が開催されるようになる。また、スポーツ競技場以外でも1969年のウッド・ストックや1970年のワイト島フェスティバル1970(英語版)といった大規模野外コンサートが行われるようになる。
エルヴィス・プレスリーとの面会

1965年8月27日にビートルズはカリフォルニア州ロサンゼルスエルヴィス・プレスリー宅に招かれた[58]。プレスリーのマネージャーであるトム・パーカー大佐がエプスタインと「極秘の打ち合わせを行なう」という名目だったが、プレスリー宅周辺には人々が集まった。

面会に際してメンバーは冷静さを装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。部屋でプレスリーは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}テレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた[要校閲]。「本物のエルヴィスだ」と感激したメンバーは呆然としてしまい、プレスリーが「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけたことから、即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。スターはドラムキットが無かったので演奏せずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。

この会見はビートルズのメンバー達や関係者達の証言の食い違いがあり、様々な諸説がある。ビートルズの友人でもある記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンがプレスリー宅のラウンジに入った時、テーブルランプの「リンドン・B・ジョンソン大統領と共に」というメッセージが刻まれたワゴンの模型を見つけた。その瞬間レノンは大統領を侮辱する態度をとり、プレスリーは困って苦笑いしていたという。(1965年にジョンソンがベトナム戦争を進めたため、レノンはジョンソンを嫌っていたからとハッチンスは語っている)プレスリーの妻だったプリシラは「ビートルズが入ってきたとき、エルヴィスはソファでリラックスしながらテレビを見ていました。両者とも最初は多少の沈黙とぎこちない会話の後、エルヴィスがベースを取り出してチャーリー・リッチの曲を弾き始めました。突然、ビートルズとエルヴィスのジャムセッションが始まりました」と語っている。

ビートルズの広報担当者でもあるトニー・バロウによると「プレスリーとビートルズは奇妙な沈黙が多く、いくつかぎこちない会話をした。最初に口を開いたのはジョンで、最近はなぜ映画でソフトなバラードばかりを歌ってるの?ロックンロールはどうしたのと質問していた。会話は上手くいかなかったが、プレスリーが楽器を用意し、素晴らしいセッションが始まった。彼等が演奏した全ての曲は覚えてないが、その内の1つはI Feel Fineだったことは覚えている。リンゴは木製家具を叩いてバックビートを鳴らしていた。それは素晴らしいセッションだった」と語っている。

プレスリーはビートルズの曲も歌い「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言したのでその場が凍りついた。これはレノン流の過激なジョークだったといわれている。この会見は成功したとは言えないものだったが、ビートルズは忘れられない夜だったと語っている。プレスリーのロードマネジャーであるジョー・エスポジートによれば、「プレスリーは面会の後もビートルズに敬意を払っていた」と語っている。レノンはプレスリーの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分はいない」と伝えるよう頼んだという。しかし後の1970年に、反米精神に満ちたヒッピーの薬物文化などの問題で混沌としているアメリカを危惧したプレスリーは、ニクソン大統領に協力を申し出た。ヒッピーに支持されていた、LSDなどを扱うビートルズの音楽や反アメリカ的な発言、共産主義的な思想などが若者に悪影響を及ぼしているとプレスリーは懸念していたのである。ビートルズの中でも特にレノンは反米的で要注意人物と考えていたという。プレスリーはビートルズを一時期警戒していた。しかしプレスリーは麻薬取締局のバッジを取得した後、ニクソンとの関係を断ちビートルズの楽曲を公演で歌っている。

この面会は当時の音楽界において最も注目すべきものだったが、会話は録音されていない。これはパーカー大佐の要請ではなく、エプスタインがプレスリー側へ気を利かせ会話録音を一切許可しなかったからである。
レノンのキリスト発言

1966年3月、コラムニストのモーリン・グリーブによるレノンの取材記事が「ロンドン・イブニング・スタンダード(英語版)」誌に掲載された。この記事の一部がアメリカ公演間際に、アメリカのティーン雑誌「デイトブック」に転載された。元の記事は紙面にして2頁という量[59]だったが、デイトブックはその中の1行である「ビートルズはキリストより有名だ」という発言を抽出して掲載した。

これが「イエスを冒?した」とアメリカで解釈され、ビートルズのレコード、プロマイドやポスターといったグッズなどが組織的に破棄、焼却されるという事態に発展する。特にキリスト教信仰が盛んなアメリカ南部で大きな騒動となり、殺害予告もなされるに至った[59]。この事態に対し、エプスタインはツアー開始前にニューヨークで声明を発し「その解釈が誤解で、ジョン・レノンは神や宗教に対して真摯な態度の人間である。しかし現在の若者にはビートルズの方が影響力がある、と言いたかったのだ」という旨を述べた。またアメリカ各地の興行主に対して公演の中止を受け付けたが、中止を申し出た興行主はいなかった[59]。公演前にイリノイ州シカゴでレノンが謝罪を行ったが一部地域で騒動は続き、バイブル・ベルト[59]に着いた頃には乗っているバスの窓が群集に叩かれたり、クー・クラックス・クランによる襲撃予告が届くなど危険な事態が生じた。全てに公演は予定通り行われた[60] が、一部の会場では空席が目立った。
ローマ教皇庁の赦免

事件から42年を経た2008年11月、ヴァチカンの公式新聞「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」は、ローマ教皇庁がレノンの発言を赦したという声明を発表した。この記事は、1966年に発表されたものを再度掲載したものである。「予想外の成功を手にした若者が『豪語しただけ』に過ぎない」というのがローマ教皇庁の見解である。なお、この年はアルバム『ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)』40周年記念の年にあたり、ビートルズを称賛する内容で締めくくられている[61][62]


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