ビートルズの解散問題
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しかし、セッションが進むにつれて、慣れない映画スタジオでの作業、本番まで時間が短いこと、メンバー以外の人間がいる中で常に撮影されていることなど、緊張と不満が原因となり軋轢が生まれていった[18]

7日にマッカートニーと対立[注釈 7]したハリスンは、10日にはレノンとの口論をきっかけにセッションを放棄してしまった[19][注釈 8]。結局、15日の話し合いでハリスンはトゥイッケナムでの撮影は中止すること、本番はさらに延期したうえで無観客・予告無しで行うこと、アルバム制作のためにアップル・コア本社の新しいスタジオでレコーディング作業をすることを条件に復帰した。セッションは21日に再開され、30日にはビリー・プレストンを加えた5人で事前予告無しにアップルビルの屋上において、後に「ルーフトップ・コンサート」として知られることになるライブ・パフォーマンスを行った[21]。非公開とは言え、2年5か月ぶりに行ったこのライブは結果として、グループにとって最後のライブ・パフォーマンスとなった。詳細は「レット・イット・ビー」を参照
ジョン・レノンの脱退宣言

1969年9月、アルバム『アビイ・ロード』のリリースが間近に迫っていた9日、スターを除く3人[注釈 9]が次のアルバムについての話し合いを行った。レノンはメンバーそれぞれがシングル候補曲を持ち寄ってシングルとアルバムを制作しようと、グループの存続について前向きな発言をしていた[22]

13日、レノンはトロント・ロックンロール・リバイバルにプラスティック・オノ・バンドを率いて出演し、3年ぶりに観衆の前で演奏を行った。その1週間後の20日、ハリスンを除く3人[注釈 10]がクレインとともに米国キャピトル・レコードとの契約更新の手続きのためアップル本社で持った会合の席上で、レノンとマッカートニーはバンドの今後を巡って口論になった[23]。マッカートニーは公演活動の再開を望み、小さなクラブでのギグを提案したがレノンは悉く反発し、挙句の果てにマッカートニーに向かって「契約書にサインするまでは黙ってろと言われたんだけど、君がそう言うんなら教えてやるよ。俺はもうビートルズを辞めることにした」と吐き捨てた。契約更改を控えた現時点で脱退を公表することは大きな不利益を被るとマッカートニーとクレインに説得され、この時点ではレノンの脱退は秘密とすることとなった[24]。しかしレノンはこれ以降ビートルズとしてスタジオに戻ることはなく、実質的にビートルズは解散した[25][注釈 11]
ポール・マッカートニーの脱退

マッカートニーはレノンの脱退宣言に衝撃を受け、暫くの間スコットランドの農場に引き篭ってしまった。その頃のマッカートニーを心身ともに支えたのが、当時のマッカートニーの妻であるリンダ・マッカートニーだった。後にマッカートニーは、自伝で「あの時リンダが支えてくれたから、ソロでやっていく決心がついた」と述懐している[29]

1970年1月、クレインは棚上げになっていた「ゲット・バック・セッション」をドキュメンタリー映画のサウンドトラック・アルバムとして発売することを計画し、フィル・スペクターをアップル本社に招待していた。「インスタント・カーマ」制作時のスペクターの仕事ぶりに感心したレノンとハリスンは3月23日、マッカートニーに無断でアルバムの再プロデュースを依頼した。スペクターはオーバー・ダビングを基に編集作業を進め、4月2日に『レット・イット・ビー』を完成させた[16]。レノンとハリスンは、頓挫しかけていた「ゲット・バック・セッション」の音源を短期間のうちにアルバムとしてまとめあげたスペクターの仕事を高く評価した[注釈 12]。しかしマッカートニーは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に加えられたコーラスやオーケストラ・アレンジに強い不満を持つなど、自分を除外したまま進められたスペクターの仕事を評価せず、アルバム発売の中止を求めて訴訟を検討したが、アルバムの発売に関する契約が1枚残っていたため、不本意ながらも発売を認めざるを得なかった。

ところがクレインは『レット・イット・ビー』の発売を優先させるために、マッカートニーのソロ・アルバムの発売日を延期しようと考え、スターをその通達のために差し向けた。マッカートニーは、既に決定していた4月17日に向けてリリースの準備を進めていたが、ソロ・アルバムでさえもクレインの管理下にある状況に激怒し、スターに向かって辛辣な言葉を吐き捨てた。結局『マッカートニー』は予定通り発売されることになった[30]

1970年4月10日、マッカートニーがグループを脱退する意向であることがイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で報じられた。これは『マッカートニー』のリリース前にプレス向けに配付された、マッカートニー自身が用意した資料に基づいた記事であった。一問一答形式の資料の中には「今後ビートルズのメンバーと創作活動をすることはない」とあり、マスコミから「脱退宣言」だと受け取られた。こうしてビートルズは事実上解散した[31][32]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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