イギリスに帰国したギブ兄弟は、オーストラリア・クイーンズランド州生まれでロンドン育ちのドラマー、コリン・ピーターセン(1948?)、そしてオーストラリア時代から彼らのレコーディングにたびたび参加していたシドニー出身のヴィンス・メロニー(1945?)をリードギターに迎え、5人編成として1967年5月にポリドール・レコード本社より「ニューヨーク炭鉱の悲劇」でレコード・デビュー。アメリカでの発売元であるアトコ・レコード(アトランティック・レコードの子会社)が、新人では前代未聞の25万ドルで契約した。
以後、「ラヴ・サムバディ」[注 1]、「ホリディ」、「マサチューセッツ」(全米11位)、「ワールド」、1968年に「ワーズ」、「ジャンボー」、「獄中の手紙」(初の全米トップ10入り)、「ジョーク」(同じく全米トップ10ヒット)をリリース。同年末にヴィンスがプロデューサー業に転向するため正式に脱退、翌1969年春、サードアルバム『オデッサ』およびシングル「若葉のころ」の発売間もなくロビンがソロ・シンガーになるべく独立(シングル「救いの鐘」は英国のみでヒット)、同年夏にはシングル「トゥモロウ・トゥモロウ」を最後にバリーとモーリスが一方的にコリンを解雇してしまう。これによって2人となったビージーズは、「想い出を胸に」を全英トップ10に送り込むも、翌1970年春先にシングル「I.O.I.O.」およびアルバム『キューカンバー・キャッスル』発売直後の兄弟喧嘩によって空中分解。その後、それぞれソロ・シングルを発表するも芳しい結果は出せず、同年9月にバリー、ロビン、モーリスの3人は結束の下に改めてビージーズとして再出発することを誓う。
10月に再スタート第一弾アルバム『トゥー・イヤーズ・オン』を発売、翌71年1月にシングルカットされた「ロンリー・デイ」を全米3位(キャッシュボックス誌では1位)とし、続くシングル「傷心の日々」は念願の全米ナンバーワンとなるが、アルバムセールスは低調だった。71年のイギリス映画『小さな恋のメロディ』は、本国では成功しなかったものの、日本では興業的にも大成功となり、サントラ盤に収められた「メロディ・フェア」、「若葉のころ」などは日本人に親しまれた。
コリン解雇後はジェフ・ブリッジフォードがドラムを叩いていたものの1972年春、初の来日公演(アイドル人気だった1969年に予定されていたが、メンバーの脱退などの諸問題で延び延びとなっていた)寸前に解雇される。
1973年に、マネージャー兼プロデューサーでもあったロバート・スティッグウッドが設立したRSOレコードへ移籍し、アメリカでの発売元であるアトコ・レコードでかつてはヤング・ラスカルズなどを手掛けるなど華々しい経歴の持ち主であるアリフ・マーディンのプロデュースを受け、アルバム『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』をリリース。マンネリ化した従来のストリングスサウンド(1967年以降ステージではバックに30人編成から成るストリングス・オーケストラをつけていた)からサウンドを変更したが、翌1974年のアルバム『ミスター・ナチュラル』も不発に終わる。マーディンは自信を失って迷いの中にいるメンバーに「課題は自分たちの新しい音楽スタイルの追求と発展とヒットレコードの制作だ。まわりの音楽状況やほかのアーティストのヒット状況に耳を傾けるように。ファンが何を求め、時代や状況に合った音楽は何か、その中の自分たちの可能性は何なのか」と問うてきた[4]。そしてビージーズの大転換がはじまる。 1975年に芸能生活20周年記念アルバムでもある『メイン・コース』からシングルカットされた「ジャイヴ・トーキン」、「ブロードウェイの夜」がディスコブームに乗り、全米大ヒット。これよりディスコ時代の幕開けとなる。リズム主体のディスコなサウンドへと脱皮を図った彼らに対して、旧来のファンからは「売れるためにサウンドを変えた」と猛反発された。しかし以後も、ディスコ・ナンバーを中心とする路線を継続し、「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」などの大ヒットを飛ばした。ディスコで大人気を誇っていたビージーズのナンバーを大きく取り入れた映画『サタデー・ナイト・フィーバー』[注 2]が、1977年に公開された。同作品はアメリカだけでなく、海外でも大成功し、アルバムも大ヒットとなった。アルバムからはビージーズの「ステイン・アライヴ」、「ナイト・フィーヴァー」、タバレスの「モア・ザン・ア・ウーマン」、イボンヌ・エリマンの「イフ・アイ・キャント・ハヴ・ユー」などがヒットした[5]。 1981年のアルバム『リヴィング・アイズ』がマイナーヒットに終わって以降は、各自のソロ活動と並行して他アーティストへの楽曲提供が活動の中心となり、数多くの全米ヒットを生み出す。 1987年にワーナー・レコードに移籍し、アルバム『E.S.P.』よりシングル・カットされた「ユー・ウィン・アゲイン」は、全英トップ10ヒット。1989年にはシングル「One」が久しぶりにヒットした。また、アンディ・ギブが早逝する悲劇に見舞われた。 2003年、メンバーのモーリス・ギブが急逝。モーリス死去後にロビンは再結成の意向はないと表明したが、2009年から活動を再開した[6]。 2012年5月20日、ロビン・ギブの死去[7]によりギブ3兄弟によるグループ活動は消滅した。 全世界でのレコード・CDのセールスは2億3000万枚に上り、彼らの楽曲は古くはエルヴィス・プレスリー、近年はデスティニーズ・チャイルドらによってカバーされている。 1971年から1979年にかけて、ビルボードチャートに9曲のナンバーワンヒットを送り出した[8]。 1978年の3月には、製作に携わった4つの楽曲が上位5位にランクイン、これはビートルズが1964年の4月に上位5つ全てを独占した記録に次ぐ偉業である。 1977年の最終週から翌1978年の8月までの32週にわたり、携わった楽曲が常に1位の座を独占し続けた。イギリスにおいては、ビートルズの28曲に次ぐ19曲がナンバーワンヒットを記録した。また、活動期間中に5つのグラミー賞を獲得した。 1997年に、アーティストの殿堂とロックの殿堂[9]、2001年にボーカルグループの殿堂、2004年9月20日にはダンスミュージックの殿堂入りを果たし、音楽史上初めて4つの殿堂入りを記録した。他にも、「英国の音楽に多大な貢献を行ったアーティスト」の栄誉も受賞した。 1968年 1969年 1970年 1975年 1976年
ディスコ期:1975年-1979年
1980年以後
業績・受賞
楽曲提供曲・カバーされた曲
Only One Woman / マーブルズ
To Love Somebody / スウィート・インスピレーションズ
To Love Somebody / ニーナ・シモン 全英5位
Marley Purt Drive / ホセ・フェリシアーノ 全米70位
And The Sun Will Shine / ホセ・フェリシアーノ 全英25位
Smile For Me / ザ・タイガース オリコン3位 ※タイガースに送ったという事でセルフカバーは発表していない
Sweetheart / エンゲルベルト・フンパーディンク 全米47位、全英22位
Only One Woman / ナイジェル・オルソン
Jive Talkin' / ルーファス
Come On Over / オリビア・ニュートン=ジョン 全米23位
ラブ・ミー - "Love Me" / イヴォンヌ・エリマン 全米14位、全英6位
1977年
恋のときめき - "I Just Want To Be Your Everything" / アンディ・ギブ 全米1位、米R&B19位、全英26位
愛の面影 - "Love Is Thicker Than Water" / アンディ・ギブ 全米1位
Nights On Broadway / キャンディ・ステイトン 全英6位
1978年
イフ・アイ・キャント・ハブ・ユー・If I Can't Have You / イヴォンヌ・エリマン 全米1位、米R&B60位、全英4位
モア・ザン・ア・ウーマン・More Than A Woman / タバレス[10] 全米32位、全英7位
愛のエモーション - "Emotion" / サマンサ・サング 全米3位、米R&B42位、全英11位
シャドウ・ダンシング - "Shadow Dancing" / アンディ・ギブ 全米1位、米R&B11位、全英42位
An Everlasting Love / アンディ・ギブ 全米5位、全英10位
(Our Love)Don't Throw It All Away / アンディ・ギブ 全米9位、全英32位
Warm Ride / レア・アース 全米39位
Night Fever / キャロル・ダグラス 全英66位
グリース - "Grease" / フランキー・ヴァリ ※バリー・ギブの作曲 全米1位、米R&B40位、全英3位
Ain’t Nothing Gonna Keep Me From You / テリー・デサリオ 全米43位
Stayin’ Alive / リチャード・エース 全英66位
You Should Be Dancing / 西城秀樹 1978年7月22日後楽園球場コンサートでカバー。