クルーナー・スタイルは、マイクロフォンとスピーカーを介することで発声の制約が生じることを逆手にとって編み出された歌唱法であったが、オペラなどと同様に肉声で大声を力強く出さなければならない在来の歌唱法を大きく革新したもので、歌唱にスマートに洗練されたイメージをも与え、広く大衆の支持を得ただけでなく、その後のポピュラー・ソングの曲作りにも大きな影響を与えた。
トップスター第二次世界大戦中にアメリカ軍放送のレコーディングを行うビング・クロスビー(右端)とフランク・シナトラ(左端)映画『ホワイト・クリスマス』でダニー・ケイとともにペリー・コモとアーサー・ゴドフリーとともに
1930年代に歌手としてトップスターの地位を確立したクロスビーは、その後映画にも進出し、第二次世界大戦前後のミュージカル映画の全盛期を通じて生涯で57本の映画に出演した。
20年以上にわたるロングランシリーズとなった「珍道中シリーズ」をはじめ、映画興行でも最も観客動員力のある主演スターとして長年ハリウッドのトップに君臨した。
また、『我が道を往く』でアカデミー主演男優賞を受賞し、『喝采』で同賞にノミネートされているなど、その演技力も高い評価を得た。 なお、歌手として1940年以降、13曲の全米No.1ヒット(『ビルボード』誌)を持つ。「ホワイト・クリスマス」や「星にスイング」、「サイレント・ナイト」などの数々のヒット曲を世に出したこともあり、生涯のレコード売上は4億枚を超えるという。 第二次世界大戦中の1942年に発売され、リメイク版を含めて全世界で4千500万枚を超える大ヒットとなった「ホワイト・クリスマス」(White Christmas
「クリスマスソングの王様」
なお、この曲は発売以降ビルボードで14週間1位を記録した。クロスビーは他にも多くのクリスマスソングを歌っており、「クリスマスソングの王様」とも呼ばれている。 第二次世界大戦後には大作ミュージカル映画にもジミー・デュランテやフランク・シナトラ、イングリッド・バーグマンなどと多数出演を続けたほか、全米的な人気ラジオ番組となった「ビング・クロスビー・ショー」も継続した。 さらに1950年代に入ると、テレビジョンの普及に併せてテレビショーやトークショーなど、映画以外のジャンルでも活躍し人気を得た。 晩年も盛んにレコーディングを行い、晩年には『追憶』やコーラスラインから『愛の後悔』などもそのアルバムの中に残している。1977年11月に来日公演の予定だったが怪我のため翌年に延期。 クロスビーは1977年10月14日にスペインのマドリード郊外モラレハにあるゴルフ場にて、プロゴルファーのマヌエル・ピエロらとコースを回った直後、午後6時30分頃にクラブハウスから20ヤード近くの場所で心臓麻痺により倒れ、クラブハウス内や救急車内で蘇生処置が行われたものの近くの病院で息を引き取った。 1930年に女優のディキシー・リーと結婚し4人の子供に恵まれるが、リーは1952年に卵巣がんで亡くなる。1957年に女優のキャスリン・グラントと再婚。「ボブ・クロスビー楽団」で知られるボブ・クロスビーは弟、映画『13日の金曜日』に出演したハリー・クロスビーは息子、女優のメアリー・クロスビーは娘、女優のデニーズ・クロスビーは孫。 1980年代に活躍し日本でも人気のあったヘビーメタル・バンド「ラット(RATT)」のギタリストであるロビン・クロスビーは遠縁の親戚である。
ミュージカル映画
晩年
死去
家族
代表曲
いつの日か君に(Where The Blue Of The Night (Meets The Gold Of The Day))
サイレント・ナイト(きよしこの夜)(Silent Night)(1935年)
発売当時だけで600万枚を売り上げた。
スイート・レイラニ(Sweet Leilani)(1937年)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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