ビロード革命
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10月18日、東ドイツで強権的な体制を敷いていたエーリッヒ・ホーネッカードイツ社会主義統一党書記長が失脚したことを受け、チェコスロバキア当局は東ドイツとの関係悪化におびえながらも、11月3日には西ドイツの求めに応じ、東ドイツ市民の西側への輸送を開始した。

ハンガリーに続いてチェコスロバキアが「鉄のカーテン」の撤去に踏み切ったことで、11月9日には冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊した。その後11月16日までには、チェコスロバキア周辺のほとんどの共産党国家が、共産党一党独裁支配を放棄し始めた。

チェコスロバキア国民は、これら一連の動きを国内外のテレビ放送を通じてすべてリアルタイムで把握しており、反体制派の市民らは民主化デモの準備を進めた。このうちプラハ市内の大学生でつくる「独立学生協会ストゥハ」(Nezavisle studentske sdru?eni STUHA)の急進派学生たちは、1939年にドイツによる占領への抗議デモに参加しドイツ軍に殺害されたカレル大学学生を追悼する祝日「国際学生の日」(11月17日)の50周年記念日を狙い、正規の追悼デモを主催するチェコスロバキア共産党の青年組織・チェコスロバキア社会主義青年同盟(SSM)のプラハ市委員会とも秘密裏に連携し、反体制デモの実施を計画した。
経緯ヴァーツラフ広場で花束をささげる群集
1989年11月16日

国際学生日の前夜、
スロバキアの高校生・大学生がブラチスラヴァ中心部でデモ行進を実施。スロバキア共産党は事前に軍を通してデモ隊に対して警告を行っていたが、デモ自体は平和的に行われた。最終的に学生の代表団がスロバキア政府教育省を訪れて民主化を求める要請を行ったあと、広場で公開討論会を開いた。

1989年11月17日

国際学生日当日の午前8時、フランティシェク・キンツル内務相は国内の秩序維持のための緊急指令を発令した。午後3時40分には
カレル大学などがあるプラハ市アルベルトフ地区に500人から600人の学生が集結した。

午後4時、50年前にドイツ軍の犠牲となった学生ヤン・オプレタルを追悼する社会主義青年同盟主催のデモ行進がプラハのカレル大学医学部前で始まった。デモ隊には準備を進めていたストゥハの学生たちが合流し、午後4時までに約1万5000人規模(5万人との説もある)に拡大。学生たちはチェコスロバキア国旗を掲げて民主化を参加者に呼びかけた上、さらにろうそくを掲げてプラハ旧市街に行進した。

デモ隊が市中心部のヴァーツラフ広場に向かい始めたため、通常警察機関である国民保安隊公安部(VB : Ve?ejna bezpe?nost)は市街地各所を封鎖し、プラハ国立劇場近くのナロードニ通りでデモ隊1万人を包囲。午後7時30分ごろ、内務省軍事局特殊目的部(OZU : Odbor zvla?tniho ur?eni spravy vojsk ministerstva vnitra)がデモ隊に対して警棒で攻撃し、強制的に解散させた。民主化勢力の「独立医療委員会」は後に、この衝突で学生ら568人が負傷したと発表した。デモ隊への攻撃を指揮した特殊目的部の中佐ら隊員3人は後に公務員陵虐罪で訴追され、懲役1年の判決を受けた。

衝突直後、現場では学生に扮してデモ隊に潜入していた秘密警察機関の国民保安隊国家保安部(StB)のルドヴィーク・ジフチャーク中尉が路上で死人のようなポーズを取ってしばらく横たわり続けたため(後の調査では精神的緊張と思われる理由で失神していたとされている)、「学生死亡」の噂が市民に広まり、民主化デモの拡大に拍車をかけることになった。

デモに参加した学生の一部はプラハ国立劇場に逃げ込み、警官隊の介入で学生が死亡したと聞いた同劇場の演劇俳優らは、学生を支援するストライキに突入することを決めた。

1989年11月18日1989年11月18日のプラハ

学生2人がラジスラウ・アダメッツ首相の私邸を訪問し、前夜ナロードニ通りで発生した警官隊との衝突事件の模様を首相に伝えた。

国家舞台芸術アカデミーの学生が主導する形でプラハ市内の学生がストライキに突入し、ストは全国の大学にも波及した。プラハでは、学生たちが国立劇場の職員や演劇俳優とともに市民に対して民主化を訴え、手製のポスターや壁新聞が市内各所に出現した。

自由ヨーロッパ放送は同日夜、前日発生したナロードニ通りでのデモ隊と警官隊の衝突で、20歳の男子学生マルチン・シュミード(Martin ?mid)が警官隊に殺害されたと伝え、多くの市民に民主化デモへの参加を促すきっかけとなった。

同日付のチェコスロバキア共産党機関紙「ルデ・プラボ」は「正常化」後初めて、1968年プラハの春を再評価する党論評を発表した。

1989年11月19日

ブラチスラヴァ、
ブルノオストラヴァなどの地方都市の国立劇場が、プラハに続いてストライキに突入。芸術文化同盟の会員もストライキに加わった。

反体制グループのメンバーがアダメッツ首相と会談し、警官隊の介入による市民の死傷者をこれ以上増やすことがないよう要請した。

スロバキアでは芸術家や科学者、教師などおよそ500人が午後5時からブラチスラヴァで会合を開いて反体制派の合議組織「暴力に反対する公衆」(Verejnos? proti nasiliu:VPN)を結成し、学生に対する当局の攻撃を非難した。その5時間後、プラハでもヴァーツラフ・ハヴェルら憲章77のメンバーや反体制組織が会合を開いて反体制派の合議組織「市民フォーラム」(Ob?anske forum:OF)を結成。政府に対して、17日の衝突事件に関わる当局側責任者の処分およびすべての政治犯事件についての再調査を要求した。

国営チェコスロバキアテレビ(?ST)は、自由ヨーロッパ放送などによって死亡説が流れた大学生マルチン・シュミード本人にインタビューを行い、映像を放送して死亡説を否定したが、映像や音声の質の悪さがさらに市民の憶測を呼ぶ結果を招いた。
民主化を求めるプラハ市内のデモストライキ突入を告げる張り紙を出した商店
1989年11月20日

大学および劇場の
ストライキが無期限ストに移行した。プラハではデモ参加者が10万人規模に達し、ブラチスラヴァでも市民による初の大衆デモが行われた。

チェコの「市民フォーラム」がアダメッツ首相と非公式に折衝。アダメッツ自身は学生の要求に同調する考えを示したが、その後開かれた閣僚会議はこれを否定し、政府は一切の譲歩を拒否する公式声明を発表した。これに対し市民フォーラム側は政府に対する要求に「共産党の一党独裁廃止」の項目を加えた。

共産党の報道や見解を否定する非共産党系の地下系新聞が発行され始めた。

1989年11月21日

「市民フォーラム」とアダメッツ首相が初めて公式の折衝を行った。アダメッツは市民に対して官憲力による暴力が行使されないことを保証すると確約した。


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