ビル・クリントン
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知事としては同州の教育水準の向上や道路の整備などに取り組んだ。1980年娘のチェルシーが誕生する。同年の春、他州に収容されていたキューバ難民をアーカンソー州の州軍施設に移したいというカーター大統領からの要請があり、これについて市民から不安の声が上がったものの、州軍指揮者たるクリントン知事はこれを容認した。しかし難民がアーカンソーに移された後に暴動を起こしたことから、クリントンにとって政治的ダメージとなった。これに加えて道路整備の財源確保のための自動車登録料値上げを行ったことも災いし、再選をかけた同年の知事選に敗れた(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)。

次の1982年の州知事選挙では当選して、知事へのカムバックを果たした。以後1984年1986年1990年と連続当選を果たした。アーカンソー州知事時代には南部成長政策理事会理事長や全米知事協会副会長、全米知事協会会長、全州教育委員会委員長を歴任し、1992年アメリカ合衆国大統領選挙までは、知事を務めた。
大統領2期目の大統領就任式に出席するため、妻のヒラリー・娘のチェルシーらと共に行進するクリントン(1997年1月20日)

大統領選挙戦では、民主党予備選挙に勝利し、前回の選挙に出馬したアル・ゴアを副大統領候補に選んだ。その後は前大統領のネガティブ・キャンペーンに敗れたマイケル・デュカキスの選挙スタッフを重用し、守りを固めた。1992年アメリカ合衆国大統領選挙で外交問題で成果のあった現職のジョージ・H・W・ブッシュ(共和党)に勝利して当選し、翌年の1993年1月20日に第42代アメリカ合衆国大統領に就任した。第二次世界大戦後のベビーブーム世代初の大統領である。また当時では珍しい軍歴の無い大統領でもあった。1996年アメリカ合衆国大統領選挙で共和党候補のボブ・ドールに勝利して再選され、大統領を2期8年に渡って務めた。

「永年の平和活動への貢献」に対しガンディー平和賞が与えられているが、この賞の創設者が逮捕され起訴されたため後に返上している。日本では1992年アメリカ合衆国大統領選挙の際にCMでケネディ大統領と握手をしたシーンがたびたび放送された。

なお就任時の年齢は46歳154日、退任時の年齢は54歳154日である。就任年齢はセオドア・ルーズベルト、ケネディに次ぎ3番目(選挙により選ばれた年齢の場合はケネディとセオドア・ルーズベルトが入れ替わる)、退任年齢は6番目(任期中の死亡を除けば4番目、ただし1期目の退任後再選したグロバー・クリーブランドは除く)の若さだが、連続2期8年間務めた大統領としては就任・退任年齢とも最年少であり、さらに2020年5月にはジェームズ・マディソンの19年3か月の記録を更新し、退任後最長寿の元大統領となっている。
政策
内政1997年の一般教書演説にて。上段左はアル・ゴア上院議長副大統領)、右はニュート・ギングリッチ下院議長アンソニー・ギデンズと(2001年12月13日)

大統領選挙では中道保守派からその左派的色彩を批判され、徐々に中道よりへの修正を図った。これは当時の東西冷戦の終結なども影響しているが、1994年の中間選挙以後は政策の一貫性の無さがしばしば批判の対象にされる。民主党では相対的にやや右寄りに位置するが、これは党内のスタンスであって、あくまで彼自身は第三の道サミット[3][4] に参加していることなどから中道左派である。もっとも、パメラ・ハリマン(英語版)から政治資金の提供を受けており、彼女の属する閨閥に施政を左右された[5]。急進リベラルからは歴代の民主党政権の中では最も保守的とされたが、一方で保守派からは「社会主義者」と呼ばれる。

安全保障や外交を重視していたジョージ・H・W・ブッシュ大統領を、大統領選挙で「It's the economy, stupid! (経済こそが問題なのだ、愚か者!)」と揶揄したように経済最優先を掲げたクリントン政権はその当初から経済政策に力を入れる。アメリカ経済の中心を重化学工業からITハイテクに重点を移し(インターネット・バブル)、平時では史上最長の好景気をもたらし、インフレ無き経済成長を達成したという意見がある。1996年には、好景気を背景にアトランタオリンピックを開催した。また、1994年のニュート・ギングリッチ率いる共和党が中間選挙で上下両院を奪還すると、共和党のお株を奪うべく、双子の赤字である財政赤字削減に動き出す。アラン・グリーンスパンFRB議長の助言の下に均衡財政を目指し、財政赤字を完全に解消して、2000年には2300億ドルの財政黒字を達成したが貿易赤字の解消は果たせなかった。これらの経済政策はロナルド・レーガン政権で行われたレーガノミクスに対し、「クリントノミクス」と呼ばれる。均衡財政はクリントンが退任する2001年まで続いた。税制ではレーガノミクスで引き下げられた高額所得者の所得税率を引き上げた。元来、クリントンは大統領選挙などで『忘れ去られた中間層』というキャッチフレーズの下で中間層の減税を実施し貧困層をターゲットにした政策を打ち出してきたが、このような民主党の方針を大幅に転換した。レーガン時代からの規制緩和や減税をさらに協力に推し進めたことになり、「民主党・共和党の間で経済学上のイデオロギー的対立軸はなくなり、もはや(共和党員でリバタリアンの)アラン・グリーンスパンもビル・クリントンも簡単に見分けがつかなくなった」[6]と評される程だった。

教育を重視し、学校へのPC導入などIT教育を推進し、同業界への利益誘導に貢献した。その他就学前児童の早期教育プログラムの拡大と移民の英語教育の充実を図った。後期には「強いドル」政策を実行し、他国の通貨に対してドル高を維持し、海外からの投資を呼び込んだ。また、アル・ゴアの提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」を推進し、IT産業の育成とIT化による生産性向上(ニューエコノミー)を押し進めた。

妻のヒラリーが提案した医療保険制度改革を試みたが、民間保険会社や企業などからの法案反対活動でこの国民皆保険制度は成立させることは出来なかった[7]
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