ビリー・ホリディ
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翌年、若い才能を求めて人々が集まることで知られるアポロ・シアターで、彼女はケネス・ホランと共演。しかしそれからしばらく経ち、ケネスが既婚者であったこともあり、二人は別れる。

ホリデイは将来性のある様々なミュージシャンと出会う機会に恵まれたが、その中にはフレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板スターであったレスター・ヤングもいた。ビリーとこのサックス奏者はすぐに意気投合する。レスターはビリーのことを「レディ・デイ」と呼び、ビリーは彼を「サックス奏者の代表」という意味で「プレジデント」、時には略して「プレズ」と呼んだ。ステージを終えた後、二人は夜が明けるまでいくつものクラブを周って歩いていたとされる。
絶頂期

ホリデイは1935年に、歴史に残るジャズピアニストであり作曲家であるデューク・エリントンとも共演した。デュークは発売された自身の短編映画『シンフォニー・イン・ブラック』にホリデイを起用し「Saddest Tale」を歌わせた。同時期に、彼女は若いサックス奏者ベン・ウェブスターとも共演し始める。

1935年7月2日、プロデューサーのジョン・ハモンドは、ニューヨークを拠点とするブランズウィック・レコードから発売するレコードを企画。サックスのベン・ウェブスターに加えて、クラリネットにはベニー・グッドマンピアノテディ・ウィルソントランペットにジョン・トゥルーハート、ベースジョン・カービー、そしてコージー・コールをドラムスに迎え、「月光のいたずら (What a Little Moonlight Can Do)」と「Miss Brown To You」を録音。ベストメンバーでレコーディングされた楽曲は、見事その年のベストセラーに輝いた。その頃には母セイディに小さなレストランを経営させ、明け方には朝食に立ち寄ることも少なくなかったという。

テディ・ウィルソンと組んで多くの契約をこなしながら、ホリデイはニューヨークにおけるジャズ・スターの一人になる。親密な雰囲気を得意とするホリデイのスタイルは、ベッシー・スミスやそれに続くシンガーたちが好んで立つ“大舞台”向きではなかったが、レスター・ヤングと組んだレコードは売れ、やがて彼女はカウント・ベイシー楽団やアーティ・ショウ楽団とも共演するようになる。ビリーは白人オーケストラと仕事をした初の黒人女性であり、当時のアメリカでは画期的な出来事だった。しかし、彼女に対する人種差別は消えず、アーティ・ショウ楽団との地方巡業の途中で切り上げざるを得なくなってしまう。ジム・クロウ法の激しい南部の州では、黒人であるビリーは彼らと一緒に唄うことが出来ないばかりか、楽団員と一緒のホテルを予約することや、レストランに入ることすらできなかった。
奇妙な果実

バンドから独立しニューヨークに戻ったホリデイは、再びクラブで歌い続けるようになり、出演者も観客も人種を問わず同席できる当時のアメリカでは革新的なクラブであった「カフェ・ソサエティ(英語版)」での専属歌手として活動した。この時期になると、ホリデイの酒量が増え、舞台の合間にマリファナを吸うようになった他、レズビアンとの関係を重ねたため「ミスター・ホリデイ」の異名を取るようにもなった。

1937年3月1日テキサス州ダラスでの巡業中に風邪から肺炎を併発した父クラレンスが死亡。南部で最も人種差別の激しい地域の一つだったダラスでは、治療を受けるために回った幾つもの病院からは全て診療を拒絶された。このことについてホリデイは自伝の中で「肺炎が父を殺したのではない。テキサス州のダラスが父を殺したのだ。」と綴っている。

1939年3月、ホリデイはルイス・アレン(英語版、フランス語版)という若い高校教師が作詞・作曲した、アメリカ南部の人種差別の惨状について歌った曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」と出合い、自身のレパートリーに加えるようになった。

コロムビアレコードはビリーホリデイに反リンチ 抗議曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」を録音させることを拒否。ミルト・ゲイブラーは、彼女に小さな専門レーベルであるコモドア・レコードに、録音するように勧め1939年4月20日に録音。

以来この曲はカフェ・ソサエティとホリデイのテーマソングとなり、間もなく発売されたレコードは大きな成功を収めた。

1941年にホリデイは1930年代ハンガリー語から英訳された「Gloomy Sunday (暗い日曜日)」をレコーディングし、この曲は『奇妙な果実』に続くヒットとなった。
麻薬、そして母の死

これに続く数年間、ビリー・ホリデイは録音や契約を増やし、成功への道を歩み続ける。ロイ・エルドリッジアート・テイタムベニー・カーターディジー・ガレスピーなど多くミュージシャンたちとの共演も果たした。一方で彼女は、トロンボーン奏者であり麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母と住む家を出て早々に結婚。モンローは彼女にアヘンコカインを覚えさせた。

また彼女はやがてビバップのトランペット奏者ジョー・ガイと出会い、ジョーの影響で今度はヘロインにも手を出すようになった。黒人として初めて立ったメトロポリタン歌劇場での晴れやかな舞台でも、デッカと契約を交わしたときも、彼女はガイの支配下にあり、ヘロイン漬けだったと言われる。ビリーは当時を振り返り、「私はたちまちのうちにあの辺で最も稼ぎのいい奴隷の一人になりました。週に1,000ドルを稼ぎましたが、私にはバージニアで綿摘みをしている奴隷ほどの自由もありませんでした」と語っている[8]

やがてホリデイの周りには「契約を守らない」「よく舞台に遅れる」「歌詞を間違える」といった噂が囁かれ始める。それを払拭するために、1945年にガイはホリデイのために大掛りなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画するが、巡業が始まってしばらく経った頃、一行の耳にホリデイの母セイディの訃報が届き、ホリデイは鬱状態に陥りアルコールと麻薬への依存を深め、結局ツアーは途中で打ち切られてしまった。

1947年、大麻所持により逮捕。その年にモンローとの離婚を機にガイとも別れた彼女は、ウェストヴァージニア州オルダーソン連邦女子刑務所で8ヵ月間の服役生活を送る。その際にニューヨークでのキャバレー入場証を失効してしまい、それから12年もの間キャバレーへの出演ができなくなってしまった。
逮捕・服役

第二次世界大戦終結後、ホリデイはピアニストのボビー・タッカー(英語版、ドイツ語版)とのコラボレーションを始める。レコードの売れ行きは順調。

1944年にはデッカと契約。

1946年2月にはニューヨークのタウンホールを制覇した。

同時期にホリデイはアイリーン・ウィルソンが彼女のために書いた「Lover Man」「Good Morning Heartache(英語版)」などを歌い、また彼女自身も「Fine and Mellow」「Billie's Blues」「Don't Explain」「God Bless The Child(英語版)」などの楽曲を作曲した。

1947年には、アーサー・ルービン監督の映画『ニューオーリンズ』にも出演した。

だが同じ頃、彼女はジョー・ガイと寄りを戻し、今度はLSDに手を出す。

1947年初頭、マネージャーのジョー・グレイザーは解毒治療のために彼女を私立クリニックに入院させるが失敗に終る。結局、数週間後にホリデイは麻薬不法所持で逮捕され、懲役1年の刑に処される。以降彼女に関するスキャンダルは途切れず、経済的にも追い込まれていった。

1948年3月16日には品行方正を認められて出所を果たしたが、彼女の心身は破壊されていた。その1週間後の1948年3月27日、彼女はカーネギー・ホールでのコンサートに出演した。ビリー・ホリデイ
1949年3月23日
カール・ヴァン・ヴェクテン撮影
ジョン・レヴィとの出会い

出所後にビリーはニューヨークでの労働許可を没収され、ニューヨークのクラブで歌うことを禁止された。唯一の例外は舞台でのコンサートであったが、幾晩も連続して大ホールを聴衆で埋めることは困難だった。加えて、ジョー・グレイザーとその後彼女のマネージャーとなるエド・フィッシュマンとの間でのエージェント戦争にも巻き込まれてしまう。

相次ぐ災難にもかかわらず、彼女はラジオでライオネル・ハンプトンと共演し、ストランド・シアターではカウント・ベイシーとも共演している。この頃から彼女の相手を務めるようになったのは、ジョン・レヴィという二流どころのギャングだった。彼女はまた、良家の出身で一時期マレーネ・ディートリヒとの浮名も流したことのある女優タルラー・バンクヘッドとも関係を結ぶ[9]


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