娘の潜在能力に気づいた両親は、地元ヒューストンで7人組(すぐに6人組になる)のガールズ・グループ「ガールズ・タイム」 (Girl's Tyme) を結成させた。ビヨンセは、マイケル・ジャクソンやティナ・ターナーのライブを観てスターを目指し、12歳の頃は、母・ティナがやっていた美容室の客に向けて歌ったりしていた[16]。
「ガールズ・タイム」はなかなか大きな成果を得られなかったため、ビヨンセの父・マシュー・ノウルズが、当時勤めていたゼロックス社の職を辞して全マネージメントを一手に引き受けることになった[15]。ビヨンセたちメンバーは10代の半ばになると、レッスンに専念するために学校を中退して(代りに家庭教師をつけた)、メジャー・デビューに向けて地道な活動を続けた。ビヨンセは父の厳しい指導の元、才能を磨いていき[16]、聖歌隊員として教会でも歌っていた[15]。
デスティニーズ・チャイルド詳細は「デスティニーズ・チャイルド」を参照
「ガールズ・タイム」 (Girl's Tyme) は1996年、聖書の『イザヤ書』を読んでいたビヨンセの母の提案で、「デスティニーズ・チャイルド」 (Destiny's Child) に改名した[15]。やがて4人組のデスティニーズ・チャイルドは、コロムビア・レコードの社員の目にとまり、1997年にデビュー・シングル、1998年にデビュー・アルバムを出し、全米の人気グループになった。
父・マシュー・ノウルズはマネージャー、母・ティナはデスティニーズ・チャイルドの衣装デザイン兼専属スタイリストを担った。この家族経営のスタイルは、次第に他の第一次デスティニーズ・チャイルドのメンバーたち(ラターヴィアとラトーヤ)の反感を買いった。マネージャーであるマシューを追い出そうとしたメンバー二人が、逆に追い出され、ビヨンセと、ビヨンセの親友・ケリー・ローランド以外のメンバー脱退に至ったといわれている[15]。
新メンバーを加えたデスティニーズ・チャイルドは、その後2005年に解散した。再結成の噂が度々浮上し、ビヨンセのライヴやスーパーボウルでの一日限定の再結成、新曲の発表などはあったが、本格的な再結成実現には至っていない。 デスティニーズ・チャイルドのメンバーそれぞれがソロ活動をし、グループ活動を休眠中の2001年、ビヨンセはMTV制作の映画『カルメン:ア・ヒップ・ホペラ』 (Carmen: A Hip Hopera 2003年6月、レコーディングに1年半かけたソロデビュー・アルバム『デンジャラスリィ・イン・ラヴ』 (Dangerously in Love
ソロ活動
2003-2004年:デンジャラスリィ・イン・ラヴ
1stアルバム『デンジャラスリー・イン・ラヴ』はアメリカ、イギリス、カナダでポップアルバムチャート(ビルボード200)とR&Bアルバムチャートでトップを記録。アメリカで400万枚、全世界では1,100万枚以上のセールスを記録[15]。シングルとアルバムが同時にアメリカとイギリスでポップチャート1位を記録するのは1983年以来、女性では初の功績となった。ビヨンセは、2003年最も商業的に成功を収める女性R&B歌手になるまで成長した。2004年には、アリシア・キーズに押されて女性で2位に転落したものの、アリシアもビヨンセを超えるほどのセールスを記録することはなかった。「Baby Boy」を踊るビヨンセ
夏の終わりにかけて、ダンスホールレゲエ歌手のショーン・ポールをフィーチャーした2枚目のシングル「ベイビー・ボーイ」(Baby Boy) もヒットチャートに浮上し、2003年の大ヒット曲の1つになった。秋はラジオでもヘヴィー・ローテーションされ、「クレイジー・イン・ラブ」より1週長い9週連続1位を記録した。この曲はビヨンセ曰く「アラビック・レゲエ」で、衣装もアラブ調で披露されることがある。「ベイビー・ボーイ」の成功からまもなく、3枚目のシングル「ミー、マイセルフ・アンド・アイ」(Me, Myself and I)、続いて翌年には、4枚目のシングル「ノーティ・ガール」(Naughty Girl) をリリース。両曲は、ビルボード・ホット100でそれぞれ最高4位と最高3位を記録した。
5枚目のシングルは、ロバータ・フラックとダニー・ハサウェイの楽曲を元にした、ルーサー・ヴァンドロスとのデュエット「ザ・クローサー・アイ・ゲット・トゥ・ユー」(The Closer I Get to You) で、ヴァンドロスがフラックのパートを歌い、ビヨンセはハサウェイのパートを歌っている。