ビクトリア湖
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このほか、タンザニアでは湖東部にマラ川、グルメティ川、ムバラゲティ川、シミユ川、湖西部では最大支流のカゲラ川、ウガンダでは西部にカトンガ川などが流れ込む。これらの河川は栄養塩類に富んでおり、ヴィクトリア湖を豊かな湖としている。
生態系と漁業北東部のカビロンド湾におけるホテイアオイの繁殖。2005年12月17日(右上)には水面が出ていたものが、1年後の2006年12月18日には湾の大半がホテイアオイで埋め尽くされている。下は2006年12月17日の湾内の様子。びっしりとホテイアオイが湖面を埋め尽くしている1997年のキスム港。港がホテイアオイに埋め尽くされているカンパラ南郊、Ggabaの船着き場。湖で獲れたティラピアを満載した漁船が港に着いたところである

ヴィクトリア湖は代表的な古代湖とされ、多くの固有種が進化し生息する『ダーウィンの箱庭』としても有名であるが、近年ナイルパーチというスズキ亜目アカメ科の全長2mを超す肉食の外来魚が食用として放流されて定着し、湖の固有種が激減している。ナイルパーチが放流されたのは1950年代、イギリス植民地政府の水産局の役人が導入したのが始まりとされる。1980年代にはヴィクトリア湖北岸で大繁殖し、南岸にもその勢いで押し寄せた[10]。これまでにハプロクロミス亜科(英語版)のシクリッド数百種が姿を消し、そのうちの多くは絶滅したと考えられている。また、「ンゲゲ」(ngege)と呼ばれる固有種のティラピア(Oreochromis esculentus(英語版))も絶滅した。食用に加工されたナイルパーチはヨーロッパや日本へ輸出されており、ヴィクトリア湖周辺の地域にとって重要な外貨獲得源となっている。ナイルパーチによる生態系の破壊とその輸出で支えられている近郊の社会の貧困と荒廃は、ドキュメンタリー映画ダーウィンの悪夢』にも取り上げられた。もっとも、この映画の内容に関しては、事実に基づいていないとしてタンザニア大使が抗議を行い[11][12][13]、現地の専門家などからも疑問の声が上がるなど、信憑性を疑問視する声も多い[14]。また、固有種とは別のティラピアも放流され、繁殖している。

一方で、これらの漁業が沿岸地域の産業を支えていることは否定できない。ヴィクトリア湖での漁獲高はタンザニアの総漁獲高の半分を占め、インド洋などの海水面やタンガニーカ湖マラウィ湖などをすべて合わせたものとほぼ同じである。ナイルパーチは主に輸出に回される一方、タンザニア国内で好まれ消費されるのはティラピアであり、湖畔だけでなく海に面した首都ダルエスサラームなどでも消費され、重要なタンパク源となっている[15]。湖岸の都市にはナイルパーチの加工場が立ち並ぶようになり、ナイルパーチ漁業の隆盛によって30万人の雇用が生まれたとされる。北岸のウガンダにおいても漁業は重要な産業となっており、2007年の国内総生産の実に12%、総輸出の7.0%を占め、水産物はコーヒーに次ぐ輸出品目となっている[16]。ウガンダにはアルバート湖やナイル川などもあるものの、漁獲の大きな部分はヴィクトリア湖が占める。タンザニア同様にウガンダでもナイルパーチとティラピア漁業は重要な輸出産業となっており、1990年代から韓国系やインド系の漁業会社が進出して基幹産業の一つとなった。しかし乱獲によってナイルパーチの漁獲も激減し、1990年代の輸出が160万トンあったものが2008年には28万トンにまで減少した[17]。南岸のタンザニア側においてもナイルパーチの漁獲高は減少気味で、ムワンザ市の水産研究所の調査漁においては、1998年には91%にものぼったナイルパーチの漁獲比重が2005年には69%にまで低下し、その減少分は一時減少していたシクリッドの回復によって埋められた[18]

赤道直下にある湖では、水温が高いため、嵐が発生しやすく、突発的な強風による高波で、小型船が破損・転覆する事故が多く、毎年約5000人の漁民が命を落としている[19]

湖の中にはビルハルツ住血吸虫がいると言われ[20]、泳ぐことはできない。もともと浅く、湖底と湖面との対流が活発に行われるうえ、栄養塩類も周辺河川より大量に流れ込むことから富栄養湖であり、透明度も低く、多くの漁獲を湖岸住民にもたらしてきたが、近年ではキスムやムワンザ、カンパラといった沿岸都市からの生活排水、沿岸の農園や牧場からの水の流入、沿岸域の湿地の開発による消失などによって湖水が著しく富栄養化し、それによってホテイアオイカミガヤツリなどの外来種水草が大繁殖した[21]ことにより、交通や漁業に支障をきたした。さらに1980年代末からは赤潮も発生するなど、水質汚濁も問題となっている[22]。この環境悪化を食い止めるために世界銀行の主導で1994年より、沿岸3カ国によってホテイアオイの制御などを目的としてヴィクトリア湖環境管理プロジェクトが実施された。

シクリッド、ヒレナマズ属(英語版)ハイギョなどの魚類のほか、ウガンダ側の水域および湖岸には森林、そしてヤシ、カミガヤツリやモウセンゴケ科食虫植物の生える湿地が多く、一帯にはズアオカモメ、クロハリオツバメ(英語版)、ハシビロコウヨーロッパジシギウスハイイロチュウヒ、アカハラセグロヤブモズ(英語版)、ハシボソキイロムシクイ(英語版)、ハジロクロハラアジサシなどの鳥類およびゾウ、コロブス属(英語版)、ブルーモンキーシタツンガなどが生息している。サンゴ湾(英語版)、ムサンブワ諸島とカゲラ川河口の湿地[23]マサカ付近のカトンガ川(英語版)河口のナバジュジ湿地[24]、ナイルパーチと住血吸虫が生息していないナブガボ湖(英語版)[20]およびカンパラの郊外にあるマバンバ湾(英語版)[25]とルテンベ湾(英語版)[26]の5ヶ所はラムサール条約登録地である。
歴史
19世紀まで

ヴィクトリア湖東端、ケニア領のルジンガ島ではおよそ2300万年から1700万年前の類人猿プロコンスル属の化石が1948年古人類学者のリーキー夫妻によって発見されている[27]

最も早くヴィクトリア湖周辺に住み着いた民族は、サン人ピグミーであったと考えられている。その後、紀元前1000年ごろにバントゥー系民族の大移動の第1波がこの地方に到達し、進んだ農耕文化を持つバントゥーが両民族を駆逐してこの地域の主要民族となった。このころから紀元前500年ごろにかけては東岸のウレウェ遺跡などを中心としたウレウェ文化が栄えた。紀元前3世紀ごろには、鉄器の製造技術が到達し、ヴィクトリア湖地方は鉄器時代を迎える[28]12世紀から15世紀ごろにはヴィクトリア湖北岸において現在のようなバナナ栽培文化が確立した[29]。15世紀末には北の、現在の南スーダンのナイル川沿いにいたナイル・サハラ語族のナイロート系諸民族が湖畔への南下を開始し、19世紀まで断続的に南下して、ルオ人などのナイロート系民族が湖畔東部に居住することとなった[30]

ヴィクトリア湖に関する最初の記録は、アフリカ内陸部に象牙などの交易路を持っていたアラブ人交易商たちによるものである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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