ビクター
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設立から戦後まで日本ビクター第一工場ファサード
(2023年現在、既に解体済み)

1927年(昭和2年)に日本ビクター(設立時は日本ビクター蓄音器株式会社)は米国The Victor Talking Machine Companyの日本法人として設立された。米国ビクターは明治時代から商品を日本に輸出していたが、関東大震災以後の大幅な輸入品関税のアップによる収益性の悪化から、生産から販売まで行う現地法人として発足した。

1929年に米ビクターがRCA社に吸収合併されたことで、RCAビクターに親会社が移行する。RCA社は、海外進出については合弁の方針であり、東芝・三井からの出資を受けていた。1931年には、現在の横浜本社工場に当時東洋一と呼ばれた蓄音機・レコードの製造工場となる第一工場を建設。経営基盤が強化された日本ビクター蓄音器は、RCA社から積極的な技術導入を進め、拡声器やラジオなど音のメディアへの積極的な進出をする。

日中戦争が始まり、外資系企業への圧力が強まる中で1938年にRCA社は資本撤退。株式を日産コンツェルンに譲渡する。この時、RCA社から、犬のマークとビクターの社名の日本での使用権を譲り受ける。

日産コンツェルンの株式は東京電気(現・東芝)に売却され、東芝傘下に入る。ビクターは1943年にRCA社と資本関係が解消した[4] 後も、研究・技術開発で交流を続け、国産初のテレビ開発や、オーディオ技術へと結びつく。大東亜戦争太平洋戦争/第二次世界大戦)が激化する中で、敵性語排除の動きを受け、社名を日本音響(株)と改称。生産工場も軍の管理となる。しかしレコードのレーベル名は最後まで「VICTOR(ビクター)」を存続させる。
松下の傘下へ

第二次世界大戦終戦直後の1945年10月に日本ビクターへ社名を変更している[4]

主力の本社・横浜工場・東京文芸座スタジオ、レコード製造施設を空襲で焼失し事業は壊滅状態で、労働争議の混乱による社長交代で親会社が東芝から日本興業銀行へ移行する。興銀は役員を派遣し再建計画を策定するもGHQが銀行の保有株式を制限したため、ビクター譲渡を東芝へ打診するも東芝も戦災の被害が大きく、ビクターの債務返済問題がこじれて話はまとまらず、次に戦前の親会社であるRCA社に打診する。

1954年(昭和29年)に松下電器産業(現:パナソニック)と提携し、松下幸之助の同郷人で元海軍大将野村吉三郎が社長に、松下の紹介で住友銀行出身の百瀬結が副社長に就くも、松下本体からは北野善郎を専務に派遣するにとどまった。野村は就任直後にRCA社を訪問して技術支援契約を結び従来の関係に戻す。1946年(昭和21年)に高柳健次郎を技術部長に迎えてテレビ開発を再開させた他、現行VTRの原型である世界初2ヘッドVTR、ステレオレコード業界標準の45/45方式、マルチサラウンド技術の原型で世界初4chレコードCD-4、プロジェクターなど多数の技術を開発する。高柳は1950年に取締役技術部長へ就任後、副社長と技術最高顧問を歴任する。
オイルショック

1960年には東京証券取引所大阪証券取引所に上場する。1969年には東京オリンピック公園の一角に最新の録音スタジオを建設、英米以外の地区で最も優れた機材が揃っていると言われた[4]。しかし、テレビのダンピング疑惑が業界全体に広まり、主婦連を中心にテレビの不買運動に発展。特に高価格商品にウェイトを置くビクターにとって痛手となった。輸出に逃げ道を求めたが、ニクソンショックによりそれもできなかった。その後、オイルショックによる景気の失速による業界不振が加わり、ビクターは低迷する。このため、社長に松下電器出身の松野幸吉が就任。当時のドル箱のレコード部門を1972年4月25日に分社化(ビクター音楽産業。現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)して、本体はハード事業に集中することとなった。

1970年代に入り、オーディオブームが到来。AVメーカーはこぞってコンポーネントシステムを発売。ビクターもグラフィックイコライザー(SEAシリーズ)や世界初の1台でステレオ音響を実現する球形スピーカー、SXスピーカーシリーズを発売する。
VHSの開発JVC HR-3300U VIDSTAR ? HR-3300の米国版。日本版とほぼ同一だが、ロゴに"Victor"の名称を使用し、"VIDSTAR"は使われなかった。VHSビデオテープ

1976年にはVHSビデオを開発。VHSは家庭用ビデオとしての要件を満たし、ソニーのベータマックスとの規格競争にも勝利し、日本初の世界標準規格となった。その後もVHSの基本規格を維持しながら、新たな規格を開発していった。ビデオカメラ用のVHS-C、高解像度を誇るS-VHS、高音質のHi-Fi規格、デジタル音声規格S-VHS-DA、アナログハイビジョン対応のW-VHS、デジタル放送対応のD-VHS等である。これらの規格には下位互換性が保障され、ユーザーがデッキを買い換えても以前のテープを使い続けることができた。VHSの影響でテープ、電子デバイス、映像ソフトなど新事業を拡大させるきっかけとなり、オーディオ・テレビなど既存の事業にも影響を与えた。

VHSビデオの発売当初は1000億円台だった年間売上は、年平均40%の成長を果たし、わずか6年で売上高6000億円台に到達、利益は4年間で10倍まで拡大した。ビクターはVHSの海外進出に合わせて海外展開を積極的に拡大し、生産・販売現地法人を各国に設立した。また、各国のAV企業へ技術供与を行い、JVCのブランドを確立した。

1982年からは欧州でのプロモーション強化を狙いFIFAワールドカップのオフィシャルスポンサーの権利を獲得。これにより欧州でのJVCブランドは絶対的な信頼を獲得することとなる。

VHSの成功後、既存のレコード設備を利用でき、絵の出るレコードとしてVHDを商品化した。参入を表明したメーカーは多数あったが、ディスクの耐久性に劣り発売延期が相次いだ。また、技術的な面ではパイオニア(ホームAV機器事業部。後のパイオニアホームエレクトロニクス→オンキヨー&パイオニアオンキヨーホームエンターテイメント〈2022年5月経営破綻〉→オンキヨーテクノロジープレミアムオーディオカンパニーテクノロジーセンター)が発売したビデオディスク規格のレーザーディスク(LD)が優勢だった。その後、オーディオ市場がレコードから光学読み取りのCDに移行した事から、VHDはディスク生産がレコード生産設備を活用できるという唯一のメリットを失う。日本ビクターは3-D立体再生機能、LDと同等の解像度を持つQX VHD、高音質再生を実現したVHD DigitalAudio、などの規格を開発し、市場に投入した。しかしこれらの規格に対応したソフトはわずかしか発売されなかった。同時期、デジタルオーディオ方式としてDAD懇談会に次世代のオーディオディスク規格としてVHD規格を利用したAHD規格をCDと同時期に提案したものの、松下などの有力メーカーからの支持を得られず、一般化することはなかった。

松下電器産業と共同でアナログハイビジョンのMUSE方式Hi-Vision VHDを開発を進めるものの、MUSE方式によるアナログハイビジョン放送が定着しなかったことも重なり、市場には投入されずに終わる。その後VHDは業務用カラオケ市場に参入するが、レーザーディスクカラオケとの競合に加えて通信カラオケの普及によって完全に駆逐され市場から姿を消す。VHDの失敗はソフトの償却だけで200億円の負担となり、ビクターの斜陽に拍車をかける原因となる。

1986年円高不況以降、VTR市場の成熟化と円高によって営業利益は低迷していたものの、100億円を超える(ピーク時は1988年の166億円)VHS関連特許使用料収入の下支えが、効果的なリストラ策を遅らせる要因となる。
バブル崩壊後JVC GY-HD100

1991年には、主力のビデオ市場は海外市場の読み違いによって在庫が増え、翌年の売上が2割近く減る。また在庫処分の費用も増加し巨額の赤字が発生、加えてオーディオ市場の不振も加わり1993年には上場以来初の無配となる。この頃からVHSの関連特許が満期を迎える。

1994年には、20年ぶりに松下から守随武雄取締役を社長として迎え入れる。1991年から1995年まで、グループ会社を含め4000人の人員削減を実行。本社も日本橋から横浜工場に移転する。こうした中でも1991年業界初のワイドテレビを発売、ワイドテレビの先鞭をつける。また、独自の動画圧縮技術によってビデオCD規格をフィリップス社と共同開発。その後のDVD規格の策定では、ビデオCDで得たMPEG技術を提供、ビクターの技術的優位性を確立する。

1995年には、ソニー・松下電器・フィリップス・日立・三菱と共同で、家庭用デジタルビデオカメラ規格のDV規格を開発。他社がセミプロ用のハイエンド機種を発売するなか、小型化を追求したデジタルムービーを発表。ビクターの技術力の高さを示す一方で、現在のデジタルビデオカメラ市場を切り開く原動力となり、大ヒットを記録する。リストラとヒット商品によって、1996年には復配するが、市場の悪化とヒット商品の不在によって、赤字とリストラによる黒字のサイクルを繰り返す。

1998年には、1990年より続いていた米パソコンゲーム会社大手エレクトロニック・アーツとの合弁事業エレクトロニックアーツ・ビクターを解消。
更なる事業再構築ビクターフラットワイドテレビ AV-28AD1(2000年)
岩井工場(ホームAVネットワークビジネスユニット)

2001年に松下電器産業社長に就任した中村邦夫の方針によって、2003年度から松下グループの事業セグメントの再編によって、ビクターは一つのセグメントとして確立し、グループの事業計画にも参加し、研究開発や部材の共同購入など松下との連携を進める一方で、経営の自主性と責任をより一層持つこととなった。当時の松下グループの中でビクターの売上は全体の7%程。

2001年には、松下出身の寺田雅彦が社長就任。2001年から2006年までに単独で3500人削減し、国内外37あった製造拠点を23拠点に集約、映画・ゲームといったノンコア事業の売却撤退を進める。一方でビクター独自の技術を活かしたオンリーワン戦略を進め、個性派企業への転身を図る。主な商品として、ハードディスク搭載MPEGムービー「Everio(エブリオ)」、コンポ・単品スピーカー・カースピーカーに搭載する世界初の木製振動板「WOOD CONE(ウッドコーン)」、世界初の家庭用ハイビジョンカメラを発売。独自開発した映像素子(D-ILA)を搭載したリアプロジェクションテレビ・ハイエンドプロジェクターの発売を行う。また、DOS/Vパソコンの市場に参入したが、伸び悩んだ。こうしたリストラと独自商品によって2002年に約445億円の損失から、2004年には156億円の純利益を計上し業績回復を果たす。

しかし急速なデジタル家電の価格低下、市場環境の急速な変化、海外市場を中心にノンブランドの台頭、デジタル製品特有の商品サイクルの短命化と、開発工程の膨張によるDVDレコーダーの重大な欠陥による損失と、ブランドイメージの悪化によって2004年には赤字転落。2005年度には306億円の当期純損失を計上する。このため再度のリストラを行わざるを得なかった。また、この業績悪化のため、1982年より続けてきたFIFAワールドカップへの協賛を2006年のドイツ大会で終了。


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