ビキニ環礁
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キャッスル作戦(水爆実験)ブラボー実験で生じた爆発の映像キャッスル作戦・ブラボー実験のキノコ雲詳細は「キャッスル作戦」および「ロンゲラップ環礁」を参照

1954年からは4度の水爆実験が実施された[1]

1954年3月1日のキャッスル作戦(ブラボー実験)では、広島型原子爆弾の約1,000倍の核出力(15Mt)の水素爆弾が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーターが形成された。このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ約1,000隻以上の漁船が、死の灰を浴びて被曝し[9]、第五福竜丸無線長の久保山愛吉が半年後に死亡した[1][注釈 3]。また、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになった。この3月1日は、ビキニ・デーとして原水爆禁止運動の記念日となり、継続的な活動が行われている。また、日本各地では1954年(昭和29年)5月13日から放射性物質を含んだ降雨(いわゆる放射能雨)が観測されるようになった。同年5月16日には京都市で8万6760カウントが記録されている。影響は農産物にも及び、同年5月21日には静岡県で採取された葉から10gあたり75カウントが計測されている。天水を飲料水として使用していた愛媛県釣島灯台佐多岬灯台の関係者にも放射線障害が認められている[11]
放射能調査

アメリカ合衆国は1958年から残留放射能の調査を開始し、1968年にはビキニ返還を約束して放射能除去作業を開始した[1]。8月には「居住は安全である」との結論が出され、島民の帰島が許可され、実験に先立ち離島した167人の内139人が帰島した。1974年には140人の帰島が許可された[1]。しかし、放射能の影響で身体的異常が多数発生したため、住民は再び離島を余儀なくされ、キリ島などに移住した[1]

1975年に島民は安全性に疑問を持ち、アメリカ政府に対して訴訟を起こした。

その後1975年、1976年、1978年に調査が行われ、1978年9月には再避難することとなった。2度目の避難の後、1980年、1982年にも米国による調査が実施された。

1986年に独立したマーシャル諸島共和国政府は、第三者による調査を実施した。その報告書は1995年2月に提出されたが、アメリカ合衆国連邦政府は報告書を承認しなかった。

1994年、マーシャル諸島政府は国際原子力機関 (IAEA) に放射能調査を依頼し、1997年5月にIAEAによる調査が開始された。1998年にIAEAは報告書「Radiological Conditions at Bikini Atoll: Prospects for Resettlement」 を発表し、その中で本環礁に定住し、そこで得られる食料を摂ると、年間15mSvに達すると推定され「永住には適さない」と結論づけた[8]
現況

島民は、強制的にロンゲリック環礁へ、さらにキリ島へと移住させられた。上記の理由も有り、現在も、原島民は島に戻れていない。キリ島はビキニ島の半分の面積しかなく、400人の住民は食糧難の下、アメリカ政府から生活保障費を受け取っている[1]。ビキニ島に人が居住できるようになる(原島民が島に戻れる)のは、早くても2052年頃と推定されている[1]

2008年4月オーストラリア研究会議 (ARC) は、ビキニ環礁のサンゴ礁の現状について発表した。その発表によると、ビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅した。

アメリカの弾道弾実験の標的地になっている(射場はヴァンデンバーグ空軍基地など)[12]
ビキニ(水着)の名称の由来

1946年7月1日の原爆実験(クロスロード作戦)の直後の1946年7月5日ルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえて(like the bomb, the bikini is small and devastating[注釈 4])、ビキニと命名してこの水着を発表した[注釈 5]

ビキニの名称は、誤って「水爆実験になぞらえた」と言われることがある[15]。ビキニ環礁における最初の水爆実験は1954年3月1日のもの(ブラボー実験)で、この水着の発表の8年後である。なお、人類最初の水素爆弾実験は、1952年11月1日エニウェトク環礁におけるもの(アイビー作戦)である。
対外関係
姉妹都市・提携都市

基隆市中華民国 台湾省

世界遺産

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯11度35分 東経165度23分 / 北緯11.583度 東経165.383度 / 11.583; 165.383

ビキニ環礁核実験場
マーシャル諸島

ビキニ環礁の衛星写真 - NASA NLT Landsat 7 (Visible Color)
英名Bikini Atoll Nuclear Test Site
仏名Site d’essais nucleaires de l’atoll de Bikini
登録区分文化遺産
登録基準(4), (6)
登録年2010年
備考いわゆる負の世界遺産[16]
公式サイト世界遺産センター(英語)
使用方法表示

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 当環礁の近海で、水素爆弾実験により被爆した第五福竜丸の航海日誌にも、「ピキンニ島」の記述が見られる[2]
^ 太平洋核実験場全体では1946年から1963年の間に105回、同じマーシャル諸島ではエニウェトク環礁と合わせて69回の核実験が行われた。
^ 病理解剖によって判明した死因は肝炎であり、肝臓に蓄積された放射能も通常と殆ど変わらないことから、被爆が原因で死亡したのではなく船員の治療の際に用いられた血液が肝炎ウイルスに汚染されていたことが原因であると指摘されている[10]
^ The Bikini tests also inspired the eponymous swimsuit. Paris Swimwear designer Louis Reard adopted Bikini for his new line of swimwear during Operation Crossroads. Reard's bikini was not the first two-piece swimsuit, but he explained that like the bomb, the bikini is small and devastating.[13]
^ When the US army conducted its atomic bomb tests on the Bikini atoll in the Pacific on July 1 1946, out of the mushroom of the explosion Reard plucked a name for his creation that would stand the test of time. Four days later, his bikini was modelled by Micheline Bernardini.[14]


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