ヒース・レジャー
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また、ヒースの曾祖父の名前を冠した団体「サー・フランク・レジャー慈善信託」は、地元の大学に対して、講師を招いたり才能ある学生へ奨学金を支給するために財政援助をしており、地域の人々から尊敬を集めている[3][4]

ヒース・レジャーが11歳の時に両親は離婚した[5]。その後、父親はエマ・ブラウンと、母親はロジャー・ベルと再婚した。兄弟には実姉(ケイト)と異母妹(オリヴィア)、異父妹(アシュリー・ベル)がいる[6]

学生時代はホッケー選手として活躍し、演劇部の部長を務めた。飛び級で16歳の時に高校を卒業。
キャリア
オーストラリア時代

10歳の時に地元の劇団に所属し、オーストラリア国内の舞台やテレビに出演。小さい役ながら1992年公開の『Clowning Around』に出演している。1996年、オーストラリアのテレビドラマ『Sweat』でレギュラー役をつかむ。番組自体あまり人気がなく、また役柄がゲイ役だったこともあり、この頃、街中で嫌がらせや、いじめを受けることもあったというが、彼の演技は業界関係者の注目を浴び、これが本格的なキャリアの出発点となった[7]。その後、1997年公開のオーストラリア映画『ブラックロック』で本格的に映画デビューを果たし、同年に全米放送のテレビシリーズ『Roar』でさらに注目を集めた。
ハリウッド進出

1999年公開の『恋のからさわぎ』でハリウッドに進出。この映画の成功で、ヒース・レジャーのもとにはアイドル路線的な役柄のオファーが殺到するようになったが、本人がこの路線を拒否し、エージェントにはシリアスで重みのある役柄を演じたいと申し入れた。しかし、大した実績もない駆け出しの若手俳優にそうしたオファーがそうそう来るはずもなく、その後ほぼ1年間、本人いわく「ヌードルと水」だけの貧窮生活を送ることになった[8]

2000年、ヒース・レジャーは『パトリオット』に出演してメル・ギブソンの息子役を演じた。この映画の評価自体は二分されたものだったが、レジャー自身は「メジャーなスターになれるだけの才能とルックスを備えている」と評価されるなど、その演技は好感をもって受け入れられた[9]

2001年公開の『チョコレート』では、ビリー・ボブ・ソーントンの息子役を演じた。冒頭40分足らずの出演であったが、その演技は「短いながらも強烈な存在感」との批評を得るなど[10]、単なる若手アイドル俳優ではないことを示した。ダニエル・デイ=ルイスも、後年の全米映画俳優組合賞での追悼スピーチの中で、『ブロークバック・マウンテン』とともにこの映画での彼の演技を讃えている。

2001年公開の『ROCK YOU!』でハリウッド作品に初主演する。この作品は全米興行収入初登場1位を記録、約5600万ドルのヒットとなりトップスターの仲間入りを果たす。この年のピープル誌の「最も美しい人物50人」にも選出された。その後も『サハラに舞う羽根』や『ケリー・ザ・ギャング』、『ブラザーズ・グリム』など、様々なジャンルの映画に出演した。これらの映画において、ヒース・レジャーの演技はそれなりに評価される向きもあったものの、映画自体の興行がいずれもふるわず、また批評家からの作品レビューも辛辣なものがあった。
『ブロークバック・マウンテン』

2004年製作、2005年公開の映画『ブロークバック・マウンテン』にイニス・デルマー役として出演した。ヒース・レジャーは、せりふの少ないこの主人公の20歳から40歳近くまで20年に及ぶ役柄を、わずかなメイクと、あとは歯を食いしばるようなしゃべり方や声の調子を変えることで演じた。抑制的な、ときに激情を爆発させる彼の演技は、批評家からマーロン・ブランドショーン・ペンのそれに比せられるなど、手放しの絶賛を受けた。

ヒース・レジャーはこの役でニューヨーク映画批評家協会賞などを受賞。また、史上9番目(26歳と302日)の若さでアカデミー主演男優賞にノミネートされ、映画芸術科学アカデミーの会員に招待された[11]

『ブロークバック・マウンテン』は2005年度の各映画賞を総なめにした。また、当初全米で5館のみという上映であったが次第に上映館を増やし、興行収入もこの種の映画では考えられないほど記録的なものになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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