ヒューストン・アストロズ
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同年4月10日に最初の試合を本拠地であるコルト・スタジアムで行った。対戦相手にはシカゴ・カブスを迎え、11対2で初試合を初勝利で飾り、その後の3連戦を3連勝と幸先のいいスタートを切った。結局、初年度は64勝96敗を記録し、リーグ8位となった(リーグ9位はシカゴ・カブスで、最下位は同年に創設されたメッツで40勝120敗だった)。ハリー・クラフト監督の采配がよかったという見方が大半を占めた[2]。翌1963年からスカウトが若手選手を中心に集め、年々その若手選手の活躍が目立つようになった[2]

1963年9月29日、メッツとの最終戦でジョン・パチョレック(ジム・パチョレックの実兄)がメジャーデビューし、3打数3安打3打点2四球2得点という成績を残した。しかし、故障などが祟って翌年以降はメジャー昇格が叶わず、この1試合に出場した限りで引退した。そのため、パチョレックは打率1.000を記録したまま引退した選手の中で、最も打数の多い選手としてメジャー史に名を残している。また、この試合で勝利投手となったジム・アンブリットが、翌年の4月8日ににより33歳で死去し、彼の背番号である32番はチーム初の永久欠番となった。

この頃、チームで活躍した選手には、後にシンシナティ・レッズでプレーし、ビッグレッドマシンの一員として知られるジョー・モーガンや、通算1920試合の出場で1665安打・291本塁打を記録し、後に永久欠番に指定されるジミー・ウィンなどがいたが、他球団に比べ戦力不足は否めなかった。1964年4月23日のシンシナティ・レッズとの試合で、投手のケン・ジョンソンがレッズ相手にノーヒッターを達成しながら0-1で敗戦投手になった試合は、この頃のチーム状況をよく表した試合の1つであろう。コルト45sはその後アストロズと名を改めるが、1968年まで90敗前後と大きく負け越すシーズンが続くこととなる。
アストロズとしてアストロドーム

1965年、地元にNASAの宇宙センターがあることから、アストロノーツ(宇宙飛行士)を縮めてヒューストン・アストロズに改名した(なおヒューストンにはNBAヒューストン・ロケッツも存在するが、こちらの前身はサンディエゴが本拠地であり、その頃からロケッツという名称だったため、NASAが名前の由来というわけではない)。同年には世界初の屋内型スタジアムであるアストロドームが開場し、その近未来的な形から大きな注目を集めた。屋内型スタジアムが建設された背景には、地元ヒューストンの高温多湿な気候と、それに伴うの大量発生が観客や選手を悩ましていたことがあげられ、これらを一挙に解決するための画期的な方法だった[2]。結果的にアストロドームの開場によって、観客数はリーグ9位にもかかわらず前年の725,773人から2,151,470人まで増加し、商業的にも大きな成功を収めることとなった。

球団創設2年目位以降6年連続で90敗以上を記録し続けていたが、1969年には東西地区制が導入され、アストロズはナショナルリーグ西地区に移動。同年には81勝81敗を記録し、チーム史上初めて勝率5割に乗せるが、地区5位(6チーム中)に終わっている。
1970年代

1972年には名将レオ・ドローチャーが監督に就任。再び勝率5割台に復帰し、一時期は優勝戦線に加わった。しかし、後半戦は失速し、優勝には手が届かず地区3位に終わった。

1975年1月5日にはノーヒットノーランを2回成し遂げ、通算104勝をあげていたドン・ウィルソンがヒューストンの自宅にてガス中毒事故により死亡するという悲劇が起こり、この年の4月には、ウィルソンの背番号である40番がチームの永久欠番となった。また、同年には赤・オレンジ・黄色・ネイビーからなるレインボーカラーのユニフォームが採用され、話題となった。このレインボーカラーは1993年までチームカラーとして導入され、そこからアストロズは"レインボー・ガッツ"("Rainbow Guts")という愛称で呼ばれることとなった。しかし、この年は64勝97敗と大きく負け越してしまい、地区最下位に沈んでしまった。また、シーズン途中にはビル・バードンに監督が交代している。そしてこの頃から上昇気流に乗り始めた[2]

1976年6月15日、本拠地アストロドームでパイレーツ戦が予定されていたが、洪水のために審判、球場関係者、ファンが球場入りできず、グラウンド外のコンディション不良による試合中止というMLB史上初の珍事が発生した(翌日からは通常通り試合が行われている)。

1979年、チームは開幕から首位を走り、7月4日の時点で2位レッズに10.5ゲーム差をつけた。この年のアストロズは、チーム本塁打数は49本、本塁打を10本以上打った選手は一人もいないという非力な打線だった。しかし、ホセ・クルーズを初め、4人の選手が30盗塁以上を記録し、チーム盗塁数は190個を数えるなど、機動力野球で他チームを翻弄した。また、投手陣でもジョー・ニークロJ・R・リチャードの両エースが活躍。兄フィル・ニークロと共にナックルボールの使い手として知られたニークロは21勝をあげ、最多勝を獲得。リチャードは防御率2.71・313奪三振で最優秀防御率最多奪三振を獲得し、リチャードは右投手リーグシーズン新記録となった。しかし、その後はレッズが猛追。シーズン終盤で首位を明け渡し、最終的に1.5ゲーム差で地区優勝を奪われてしまった。リチャードは翌年に心臓疾患により引退した[2]
1980年代
ノーラン・ライアンの加入ノーラン・ライアン

1980年、カリフォルニア・エンゼルスからノーラン・ライアンを4年450万ドルという当時では破格の契約で獲得。ライアンはMLB初の100万ドルプレイヤーとなった。また、レッズからはジョー・モーガンがチームに復帰し、モーガンは経験豊富なベテランとしてチームを引っ張った。彼らの活躍もあってチームも勝利を重ね、最終的にロサンゼルス・ドジャースと同率首位に並んだ末、ワンゲームプレイオフに勝利し、球団創立19年目にして初の地区優勝を果たした。続くナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ(NLCS)ではフィラデルフィア・フィリーズと対戦。第1戦以外はすべて延長戦による決着という激戦の末、2勝3敗で敗れ、リーグ優勝はならなかった。

1981年、ドジャースからドン・サットンを獲得。サットン、ライアンという当時のナ・リーグを代表する右腕投手が揃った。9月26日にはライアンが通算5度目のノーヒットノーランを達成し、サンディ・コーファックスの持つMLB記録を破った。また、自己最高となる防御率1.69を記録し、最優秀防御率も獲得した。同年にはストライキによって前後期制となり、アストロズは33勝20敗で後期優勝を飾る。プレーオフでは、前期優勝のドジャースとのナショナルリーグディビジョンシリーズ(NLDS)に臨み、第1戦、第2戦と連勝したが、その後は3連敗を喫し、地区優勝はならなかった。

1983年4月27日にはライアンがウォルター・ジョンソンの持つ通算3509奪三振を抜き、通算奪三振のMLB記録を更新。

1986年にはマイク・スコットスプリットフィンガード・ファストボールをマスターし、「見えない球をどうやって打つんだ!」と言われるほどの魔球だった[2]。18勝10敗、防御率2.22、306奪三振を記録し、サイ・ヤング賞を受賞。スコットはこの年の9月25日にはノーヒットノーランを達成し、打線ではグレン・デービスが31本塁打を放ち、アストロズではジミー・ウィン以来となる30本塁打以上を記録した(本拠地のアストロドームは極端に本塁打が出にくい球場として知られ、アストロズの選手が25本塁打以上を記録するのも稀であった)。


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