ヒマラヤ山脈
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

またこれによって中央アジアは降雨量が少なくなり、タクラマカン砂漠ゴビ砂漠を形成する原因となっている[10]

冬季になるとイランの方から激しい気流が発生するが、ヒマラヤ山脈はその気流を遮断、カシミール地方に降雪を パンジャブ州と北インドに降雨をもたらす。

またその気流の一部は一部がブラマプトラ川流域に流れ込み、インド北東部とバングラデシュの温度を下げる。この風が原因となり、これらの地方に冬季の間、北東モンスーンが起きる。
ヒマラヤのおもな地上交通ブンラ峠

ヒマラヤ山脈の地形は非常に険しく、人を容易に寄せつけないが、いくつかの道が存在する。
ヒマラヤ東部
ブンラ峠(英語版)によって、インドのアルナーチャル・プラデーシュ州とチベットのツォナ県が結ばれている。ダライ・ラマ14世が1959年のインド亡命時に通ったルートでもある。
ナトゥ・ラ峠とジェレプ・ラ峠
ナトゥ・ラ峠ジェレプ・ラ峠は、シッキムのガントクとチベットのラサを結ぶルートであり、いずれもシッキム東部に位置している。また、ナトゥ・ラ峠はシルクロードの支道の一部であると考えられている。
チベットとネパールを結ぶルート
チベット側のニャラム県ダムとネパール側のシンドゥ・パルチョーク郡コダリ(英語版)の間には中尼友誼橋(中国語版、英語版)があり、中尼友誼橋によって中国のG318国道とネパールのアラニコ・ハイウェイ(英語版)が接続している。このほかに、チベットのディンキェ県ドンパ県とネパールのダウラギリ県ムスタン郡を結ぶルートがある。
ヒマラヤ西部
インド、ネパール、チベットの三国国境付近にはリプケーシュ峠(英語版)があるほか、インドのヒマーチャル・プラデーシュ州とチベットのツァンダ県の境界にはシプキ・ラ峠(英語版)がある。
カシミール-チベット・東トルキスタンルート
カシミールスリナガルから、ラダックレーを経てチベットに至るルートで、国道1号線(英語版)に指定されている。インド側には自動車道の世界最高地点のカルドゥン・ラがある。またラダックの北端にはカラコルム峠があり、東トルキスタンとも結ばれていたが、いずれもインドと中国の政治問題のため、国境は閉鎖されている。
ヒマラヤの地政学と文化ザンスカール地方の僧院。日没を知らせる僧侶

巨大なヒマラヤ山脈は、何万年もの間人々の交流を妨げる障壁となった。特にインド亜大陸の民族と中国・モンゴルの民族が混ざり合うのを妨げ、これらの地域が文化的、民族的、言語的に非常に異なっている直接の原因となった。ヒマラヤ山脈は軍の進撃や通商の妨げともなり、チンギス・カンはヒマラヤ山脈のためにモンゴル帝国をインド亜大陸に拡大することができなかった。また、急峻な地形と厳しい気候によって孤立した地域が生まれ、独特の文化が育まれた。これらの地域では、現代でも交通の便が悪いため古い文化・習慣が根強く残っている。

ヒマラヤに大きな影響を与えているのは、北のチベット系民族と南のインド系民族である。山脈の大部分はチベット系民族の居住地であるが、南からやってきたインド系民族も低地を中心に南麓には多く住んでいる。チベット系民族の多くは山岳地域に住み都市文明を持たなかったが、ネパールのカトマンズ盆地に住んでいるネワール人は例外的に肥沃な盆地に根を下ろし、カトマンズパタンバクタプルの3都市を中心とした都市文明を築いた[11]。カトマンズ盆地は18世紀にインド系民族のゴルカ朝によって制圧されたが、ネワールは力を失うことなく、カトマンズなどではネワールとインド系の文化が重層的に展開した姿が見られる。カトマンズ以外のネパールはインドと文化的なつながりが強く、チベットともややつながりがあるが、中国文化圏との共通性はほとんどない。宗教的にも仏教徒は少なく、ヒンドゥー教徒が多く住む。これに対し、その東隣にあたるシッキムやブータンはチベット文化圏であり、住民は仏教徒がほとんどである。しかし19世紀以降、地理的条件の似ているネパールからの移民が両国に大量に流入し、シッキムにおいてはネパール系が多数派となり、ブータンにおいても一定の勢力を持つようになった。これは両者の対立を引き起こし、この対立が原因でシッキムは独立を失い、ブータンでも深刻な民族紛争が勃発することとなった。ヒマラヤ地域に広く分布するチベット民族は顔つきこそモンゴロイドだが中国文化圏との共通性は低く、インド文化圏とも共通性は少ない。チベットは古くからその孤立した地形によって独立を保ち、独自のチベット文化圏を形成している。

ヒマラヤ西部のパンジャーブ・ヒマラヤではイスラーム教圏の影響が強い。カシミールはイスラーム系住民が多数を占める地域である。カシミールの北にあるラダックは19世紀よりジャンムー・カシミール藩王国領となっていたが、もともとチベットとのつながりの深い地域であり、住民もチベット系民族であって宗教もチベット仏教である。その西はパキスタン領のバルティスターンであるが、この地域は歴史的にラダックとつながりが深く住民もチベット系であるが、宗教はイスラーム教であり、インド・パキスタン分離独立の際起きた第1次印パ戦争ではパキスタン帰属を選択した。
政治情勢インド、パキスタン、中国によって分割されたカシミール地区カルドゥン・ラ(Khardung La)。インド軍の管理下にある。後ろに18,380 ft(5,602メートル)と書いた看板が見える。

ヒマラヤの20世紀後半の政治情勢は、南北の2大国である中国とインドの影響力拡大と角逐の歴史であるといえる。ヒマラヤ北麓のチベットは清朝時代から中国の影響下にあったが、半独立状態を保っていた。しかし1950年中国のチベット侵攻により完全に中国領となり、1959年にはチベット動乱によってダライ・ラマ14世がインドへと亡命し、ヒマラヤ南麓のダラムシャーラーチベット亡命政府を樹立した。

一方、南麓のインド側ではイギリス領インド帝国の支配のもと、ジャンムー・カシミール藩王国などいくつかの藩王国が存在し、また中国との間の緩衝国としてネパールブータンが独立国として存在し、また両国の間にはシッキム王国がイギリスの保護国として存在していた。しかしインドで独立運動が盛んになり、1947年8月15日インド・パキスタン分離独立が起こると、各地の藩王国はどちらかへの帰属を迫られるようになった。ジャンムー・カシミール藩王国は藩王がヒンドゥー教徒であるが住民の80パーセント以上はイスラーム教徒であり、藩王が態度を決めかねるなか、イスラーム系住民が蜂起してパキスタン帰属を要求。これに対し藩王はインドの介入を求め、これが引き金となって第一次印パ戦争が勃発した。この戦争の結果、カシミールはインド領のジャンムー・カシミール州とパキスタン領のアーザード・カシミールとに分断されることとなった。

その後、インドと中国はカシミール北東部(アクサイチン地区)やマクマホン・ラインなどの国境線をめぐって対立を深め、1962年には中印国境紛争が勃発した。この戦争で中国人民解放軍は勝利してアクサイチンやインド東北辺境地区を軍事占領し、東北辺境地区からは撤兵したもののアクサイチンは実効支配下に置いた。

この戦争ののち、インドはヒマラヤ地域への影響力を強化していく。1975年には先住民であるブティヤ人レプチャ人(チベット系)と移民であるネパール系の間で政治的対立の生じていたシッキム王国を制圧し、シッキム州として自国領土へと組み入れた。さらに1987年には直轄領であった係争地・インド東北辺境地区をアルナーチャル・プラデーシュ州へと昇格させ、支配を強化した。この動きを見たブータン王国は自国のアイデンティティの強化に乗り出し、1985年には国籍法を改正するとともに、1989年には「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などを実施して自国文化の振興に努めるようになったが、これはブータン南部に住むネパール系住民を強く刺激し、民族間の衝突が繰り返され多数の難民が流出することとなった[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:67 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef