ヒトラー暗殺計画
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1週間後に国境に向かう途中の列車内で無賃乗車で逮捕される[4]。持ち物に拳銃が見つかり、バヴォーは射撃が趣味だと言い張るが、弾薬とミュンヘンとベルヒテスガーデンの地図が見つかり、1939年2月にヒトラー暗殺未遂で逮捕された[5]。1938年12月18日、バヴォーは民族裁判所で死刑を宣告され、1941年5月14日、ベルリンのプレッツェンゼー刑務所でギロチンによって処刑された[6]事件後のビュルガーブロイケラー

1939年11月8日、当時36歳の家具職人ゲオルク・エルザーによる暗殺未遂。
ヒトラーは1923年11月8日のミュンヘン一揆を回顧するため、毎年その日にビアホールビュルガーブロイケラー」で約1時間半ほど演説するのが恒例だった。機械工作の才能が有ったエルザーは、時計仕掛けの時限装置付き爆弾を製作し、約35日間かけてホール内のコンクリート柱をくりぬいて穴を開け、その中に演説時間内に爆発するようセットした爆弾を仕掛け、演説中のヒトラーを爆殺しようとした[7][8]。11月8日、ヒトラーはビュルガーブロイケラーに到着[9]。8時10分頃から演説を開始したが、その日は演説を短縮し、予定を早めて9時7分頃にはビアホールから出た[10]。その13分後の9時20分に爆弾が爆発し、3人が即死、67人が負傷し、その内5人が死亡[11]。負傷者の中にはヒトラーの恋人エーファ・ブラウンの父フリッツもいた[12]。折りしも第二次世界大戦勃発から2ヶ月、ヒトラーは情勢の検討と西方攻撃作戦の準備のため、至急ベルリンへ戻る予定だった[13]。11月8日夜は悪天候のため飛行機ではなく、時間のかかる列車でミュンヘンからベルリンへ移動するため、例年より早めに演説を終了し会場から退席する事となり、結果的に爆発に巻き込まれなかった[13]。エルザーは11月8日夜、スイスへの国境侵犯の疑いで逮捕された[14]。当初は爆破事件の容疑者とは見なされていなかったが、現場の写真や爆弾の設計図を所持していたため、やがて爆破事件の容疑者として追及される[15]。共犯者や背後関係が疑われ、ナチスによる自作自演説も流れたが、結局は単独犯行と断定されている[15]。彼はザクセンハウゼン、次いでダッハウ強制収容所に収監され、大戦末期の1945年4月9日に処刑された[16]。この事件以後、爆発物の管理が厳重になった[17]
ズデーテン危機における陸軍のクーデター計画

1938年5月、ドイツのチェコスロバキア攻撃計画が漏洩し、ヒトラーはズデーテン地方の割譲を要求した。情勢は緊迫し、チェコ、フランス、イギリスは動員を発令、ドイツでは陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック陸軍上級大将が、ヒトラーの政策に反対して辞任[18]。ヨーロッパに戦争勃発の危機が迫る。このような情勢下、反ヒトラーのクーデター・暗殺が計画された。元陸軍参謀総長ベック上級大将[19]、その後任の陸軍参謀総長フランツ・ハルダー上級大将[20]、国防軍情報部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将[21]、同情報次長ハンス・オスター陸軍大佐[21]、ベルリン地区防衛司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン陸軍大将[22]、装甲部隊司令官エーリヒ・ヘプナー陸軍中将[23]、ベルリン警視総監ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ警察大将[24]、刑事警察本部長アルトゥール・ネーベ警察中将[24]、元参事官のハンス・ベルント・ギゼヴィウス(de:Hans Bernd Gisevius)[25]、国立銀行総裁ヒャルマル・シャハト[24]、高等裁判所裁判官ハンス・フォン・ドホナーニ[26]、外務省官房長エーリヒ・コルト(de:Erich Kordt)、元ライプツィヒ市長カール・ゲルデラー[27]、精神科医カール・ボンヘッファー[26]ら多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが関与していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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