ヒトラー暗殺計画
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しかし、作戦会議の出席者はブッシュ一人だけとされ、ブライテンブーフは入室が許されず、暗殺の機会を逃した[46]。会議終了後に、トレスコウからブライテンブーフの暗殺計画が漏れていたことを告げる[46]。ただし、ブライテンブーフに対する容疑が固まっていなかったため、逮捕されることなく見逃されていた[46]
シュペーアによる暗殺計画

1945年3月頃、軍需相のアルベルト・シュペーアは、ヒトラーのネロ指令に反逆し、ヒトラー暗殺を思い立つ[47]。シュペーアが考えていた暗殺方法は、総統地下壕の換気装置が、手の届く高さにあることに着目し、換気装置に毒ガスを注入するというものだった[48]。しかし、ある日換気装置が手の届かない高い場所に移され、警備が厳重になっており、暗殺を断念した[48]。シュペーアが暗殺をしようとしたことについては、シュペーアの回想録程度しか情報が無いため、信憑性には疑義が残る。
7月20日事件詳細は「7月20日事件」を参照

1944年6月に連合国軍がノルマンディー上陸作戦を成功させ、加えて東部戦線における赤軍の大攻勢により挟み撃ちとなったドイツの敗勢は明らかとなり、黒いオーケストラはヒトラーの排除計画を急ぐようになった。この頃になると、新たに国内予備軍一般軍務局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将、陸軍通信部隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成部長ヘルムート・シュティーフ少将、国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク参謀大佐など多くの将校がグループに加わっていた。

7月20日に東プロイセン総統大本営ヴォルフスシャンツェ会議室において、シュタウフェンベルクが爆弾を忍ばせた鞄を机の下に置き、爆発させた。室内の数名が死亡したものの、ヒトラーは軽傷を負ったのみで助かった。

ベルリンの国内予備軍司令部において、オルブリヒトらは「ヴァルキューレ」作戦を発動させ、ヒトラーの死亡と国防軍首脳部の人事刷新、戒厳令を発表し、各地の軍部隊にはSS、ゲシュタポの逮捕を指令した。

ベルリン中心部は首都警備大隊により占拠され、パリやウィーンにおいてSS将校が逮捕されたが、ヴォルフスシャンツェと軍部隊との連絡が回復されたこと、首都警備大隊長のオットー・エルンスト・レーマー少佐がヒトラーの生存を確認して鎮圧側に回ったことなどによりクーデターは失敗した。

黒いオーケストラの構成員の中で、シュタウフェンベルクらはクーデター決行の当日夜に処刑され、トレスコウなど何人かの将校は自殺した。その他のメンバーはそのほとんどが逮捕され、裁判にかけられ処刑された。事件に関係した反ナチス将校の処刑はドイツの敗北の直前まで続いた。
映画

ゲオルク・エルザーによる爆破事件を描いたもの

『ヒットラーを狙え!?独裁者 運命の7分間
』、クラウス・マリア・ブランダウアー監督、1989年

ヒトラー暗殺、13分の誤算』、オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督、2015年


反ナチのカナリス海軍大将を描いたもの

『誰が祖国を売ったか!』(DVD邦題:誰が祖国を売ったか?、原題:Canaris)、アルフレート・ヴァイデマン監督、1955年


1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を描いたもの

『ヒトラー暗殺』(原題:Es geschah am 20.Juli)、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督、1955年

『暗殺計画7・20』(DVD邦題:総統爆破計画、原題:Der 20.Juli)、ファルク・ハルナック監督、1955年

『殺しのプロット/独裁者を消せ!』(原題:The Plot to Kill Hitler)、1990年、TVムービー

オペレーション・ワルキューレ』、ヨ・バイアー監督、2004年

ワルキューレ』、ブライアン・シンガー監督、2008年


脚注^ ロジャー(2007年)、10頁。
^ a b c ベルトルト(1985年)、15-16頁。
^ ロジャー(2007年)、51-53頁。
^ ロジャー(2007年)、54頁。
^ ロジャー(2007年)、55頁。
^ ロジャー(2007年)、57-58頁。


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