3月13日、ヒトラーは搭乗機Fw200コンドルで中央軍集団司令部に到着した[36]。ヒトラーには総統副官のハインツ・ブラント中佐が同行していた[37]。一同が会食中、トレスコウはブラントに、「賭け事に負けた」という名目でコアントローの小包を、参謀本部編成課長のヘルムート・シュティーフ大佐に届けるよう依頼した[37]。しかし、この包みは酒瓶に見せかけた爆弾であった[37]。
同日午後1時過ぎ、ヒトラーは総統大本営に向けて飛び立った。爆発を確信したトレスコウは、国内予備軍司令部のオルブリヒト大将に連絡し、彼は「ヴァルキューレ」発動準備を下令した。しかし、ヒトラー機が途中、乱気流を避けるため急上昇した際、ロシア上空の寒気で時限装置が故障[38]したため起爆せず、ヒトラーは無事に総統大本営に到着した[37]。計画の失敗を知り、トレスコウはオルブリヒトに、「ヴァルキューレ」発動は演習だった事にして計画を中止させた。次に総統大本営のブラントに連絡し「間違えて別の酒を包んだので、その小包はシュティーフ大佐には渡さないように」と依頼[39]。翌日、副官のファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉によって爆弾は回収され、計画は発覚しなかった[39]。
トレスコウらは引き続き、3月21日に予定された、ヒトラーのベルリン兵器保存館視察を狙い、ゲルスドルフ大佐を案内役に推薦し、彼に暗殺計画を託した[40]。彼は時限信管付き爆弾で、ヒトラーを道づれに爆死する決意をしたが、当日は視察をごく短時間で終わらせたため、ゲルスドルフはヒトラーに接近する機会が無くなり、暗殺は失敗した[41]。 1943年12月16日、新しい軍服や装備品の展示会があり、軍服のモデルを務めるアクセル・フォン・デム・ブッシェ大尉(en:Axel von dem Bussche 1944年3月11日、エーベルハルト・フォン・ブライテンブーフ大尉(en: Eberhard von Breitenbuch 1945年3月頃、軍需相のアルベルト・シュペーアは、ヒトラーのネロ指令に反逆し、ヒトラー暗殺を思い立つ[47]。シュペーアが考えていた暗殺方法は、総統地下壕の換気装置が、手の届く高さにあることに着目し、換気装置に毒ガスを注入するというものだった[48]。しかし、ある日換気装置が手の届かない高い場所に移され、警備が厳重になっており、暗殺を断念した[48]。シュペーアが暗殺をしようとしたことについては、シュペーアの回想録程度しか情報が無いため、信憑性には疑義が残る。 1944年6月に連合国軍がノルマンディー上陸作戦を成功させ、加えて東部戦線における赤軍の大攻勢により挟み撃ちとなったドイツの敗勢は明らかとなり、黒いオーケストラはヒトラーの排除計画を急ぐようになった。この頃になると、新たに国内予備軍一般軍務局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将、陸軍通信部隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成部長ヘルムート・シュティーフ少将、国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク参謀大佐など多くの将校がグループに加わっていた。 7月20日に東プロイセンの総統大本営ヴォルフスシャンツェ会議室において、シュタウフェンベルクが爆弾を忍ばせた鞄を机の下に置き、爆発させた。室内の数名が死亡したものの、ヒトラーは軽傷を負ったのみで助かった。 ベルリンの国内予備軍司令部において、オルブリヒトらは「ヴァルキューレ」作戦を発動させ、ヒトラーの死亡と国防軍首脳部の人事刷新、戒厳令を発表し、各地の軍部隊にはSS、ゲシュタポの逮捕を指令した。 ベルリン中心部は首都警備大隊により占拠され、パリやウィーンにおいてSS将校が逮捕されたが、ヴォルフスシャンツェと軍部隊との連絡が回復されたこと、首都警備大隊長のオットー・エルンスト・レーマー少佐がヒトラーの生存を確認して鎮圧側に回ったことなどによりクーデターは失敗した。 黒いオーケストラの構成員の中で、シュタウフェンベルクらはクーデター決行の当日夜に処刑され、トレスコウなど何人かの将校は自殺した。その他のメンバーはそのほとんどが逮捕され、裁判にかけられ処刑された。事件に関係した反ナチス将校の処刑はドイツの敗北の直前まで続いた。
新装備展示会での暗殺計画
ブッシュ元帥副官による暗殺未遂
シュペーアによる暗殺計画
7月20日事件詳細は「7月20日事件」を参照
映画
ゲオルク・エルザーによる爆破事件を描いたもの
『ヒットラーを狙え!?独裁者 運命の7分間』、クラウス・マリア・ブランダウアー監督、1989年
『ヒトラー暗殺、13分の誤算』、オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督、2015年
反ナチのカナリス海軍大将を描いたもの
『誰が祖国を売ったか!
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を描いたもの
『ヒトラー暗殺』(原題:Es geschah am 20.Juli)、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督、1955年
『暗殺計画7・20』(DVD邦題:総統爆破計画、原題:Der 20.Juli)、ファルク・ハルナック監督、1955年